3. 不良債権問題と貸し渋り
1. なぜ不良債権が発生するのか
不良債権問題が金融不安の高まりを通じて日本経済全体に悪影響をもたらしているのは衆目の一致するところである。それゆえ、巨額の不良債権を抱える銀行は非難され、不良債権処理の遅れはすべて銀行経営者の怠慢に起因するかのように議論されている。本当にそうなのだろうか。ここでは、不良債権問題の延長線上にある貸し渋りの意味するところを正確に把握するためにも、不良債権とは何か、またなぜ発生するのか、という問題について改めて吟味する。
もちろん、現在の膨大な不良債権の大半が不動産関連融資に集中しているということは、第1義的には、バブル期においては銀行の不動産関連融資が過剰なまでに増大したことを意味している。実際、いわゆるバブル経済当時における銀行融資が建設、不動産、ノンバンクという規制3業種に集中した結果、地価の動きが銀行資産の健全性を大きく左右する事態に至ったのである。こうした事実は、不特定多数の預金者から受け入れた預金を特性の異なる多数の借り手に対する貸出として運用することによりリスクを分散し、安定的な運用パフォーマンスを維持するという銀行に対して求められる社会的要請に反するものであり、その意味で、銀行経営者によるリスク管理の失敗という側面は否定しようがない。
しかしながら、その一方で、銀行が貸出を増やしていった裏側には、借り手企業からの不動産取得を目的とした銀行借入需要があったことを忘れてはならない。借り手企業、銀行とも当初から不良債権となることを前提として融資契約を結ぶことはありえないため、借り手企業における経営見通しの誤りのほか、それをもたらした予想外の実体経済面での変動も、不良債権問題の発生に対して大きく寄与していることを見逃せない。この点について触れられることは少ないが、バブル崩壊後8年を経た今日においてもなお不良債権の発生が止まないほか、近時においてはさらに「不況型倒産」が増え、不良債権の増加が急ピッチで進みはじめていることからしても明らかである。
2. 不良債権の処理について
銀行が世間から非難される背景としては、このほか、長年にわたって抜本的な不良債権処理を先送りしてきたという事情が指摘されることが多い。もちろん、銀行においては不良債権の処理に要するコスト負担を嫌うとともに、競合関係にある他行との間の利益順位競争で遅れをとりたくないという勝手な思惑に加え、担保不動産の価値はまもなく上昇に転じるであろうと期待し続けたなどというように、銀行経営に甘さがあった点は否定できない。しかし、その一方で、不良債権の早期認識・早期償却を促す方向で作用することが期待された貸倒引当・償却制度そのものが、税制面での取り扱いが厳格に規定されていたこともあって、銀行が自らの判断で不良債権の償却を進めることを阻害し、それがまた、銀行経営者のモラルハザードをもたらし、不良債権処理の先送りを促してきたという事実も忘れてはならない。
加えて、メインバンク制度という日本独特の金融取引慣行のなかで、銀行に対しては取引企業の破綻を未然に防いだり、「いざ」という場合には市場原理に基づく経済合理性を無視してでも危機に陥った企業に対して経営支援を行うことにより企業経営の安定性、雇用の確保のほか、社会不安の高まりを防止するという役割が銀行保護行政と相俟って期待されていた。このように考えると、不良債権問題の発生とその先送りは基本的には銀行経営者の先行き見通しの誤りとリスク管理の甘さに起因するが、不良債権の最終的な処理が進んでこなかった背景には、不良債権の償却制度が現実の動きに追いつかなかったことを見落とすわけにはいかない。そして、その結果として、問題処理の先送りが促されると同時に、借入企業も整理されずに今日まで生き残ることとなった。
3. 銀行が不良債権を抱えていることの意味するもの
したがって、問題の先送りと非難されつつも銀行が不良債権をドライに処理することなく長年にわたって抱えてきたことは、一面では銀行株主の負担で問題企業に対し救済の手を差し伸べ、間接的には金融面から日本経済を支えるという役割を担ってきたと解釈することができる。これこそが、護送船団方式の下で銀行に期待された社会的役割であり、その意味で、銀行は社会から要請されてきた機能を果たしてきたともいえる。しかしながら、こうしたやり方は銀行が厳しく規制されていた時代においてのみ通用するものであり、金融の自由化時代にそぐわないのは明らかである。換言すると、金融の自由化が大きく進んできたにもかかわらず、旧来の発想に基づき対応してきたことが不良債権問題を複雑化、深刻化させたということができる。
こうした旧制度の限界を見直し、金融の自由化、グローバル化時代にふさわしいかたちに日本の金融の仕組みを改編しようとするのが日本版ビッグバンである。日本版ビッグバンが理念とするフリー、フェア、グローバルという視点で市場原理の支配する金融取引の達成を追求していけばいくほど、旧来のやり方は遂行困難となる。自己責任、自己統治を原則とする経済社会においては、不透明かつ市場原理に反する手法は放棄されなければならず、そのため、銀行としても問題企業を長い目で見て支援するという従来の行動パターンはとれなくなっていくであろう。
日本の金融を真にグローバルなものとするということは結局、銀行のみならず借入企業に対しても意識変革を求めている。日本ではメインバンク制に代表される銀行と企業とのウェットな関係が日本的経営のひとつとして喧伝されてきた。しかし、現在、日本の金融において求められるのは、そうした発想そのもののを捨て去り、銀行、企業とも自己責任原則に基づきアームズレングスの関係にまで引き離していくことである。ビッグバンが本格化するなかで現在、銀行、企業に対し問われているのは、果たしてどのまでこのような覚悟ができあがっているか否かである。こうした観点からすると、現下の不良債権問題の解決に際しては銀行責任論のみに終始することなく、問題の本質を直視したうえでの国民経済的な立場から冷静に分析・判断することが必要と思われる。破綻銀行の処理に際しては、経営内容に一部問題のある借り手の保護が大きな問題となっているが、そのこと自体、銀行が、これまでの間、問題含みの企業を支援してきたことを如実に物語っている。
4. 貸し渋りの意味するもの
こうした点について、いわゆる貸し渋り論議を批判的に検討することにより、もう少し詳しく分析することにしよう。貸し渋りとは何かを考えた場合、マスコミ等においては次の2つのケースが峻別されないまま議論されているように窺われる。すなわち、第1のケースは、銀行が自己都合により借入企業から一方的に資金を回収する、もしくは新規の貸出に一切応じない場合である。第2のケースは、銀行が企業に貸出金利の引き上げを要請し、それに応じない場合には資金を引き揚げたり、新規の貸出に応じない場合である。したがって、貸し渋り解消対策といっても、それぞれのケースに応じて異なった措置を考案する必要がある。たとえば、第1のケースは、銀行が不良債権処理とともに自己資本を大きく減少させてきた結果、自己資本比率を維持するためには貸出資産自体を削減しなければならないという銀行自身の内部的な必要性に駆られたものであるため、これについては自己資本の強化が対策として求められる。
しかしながら、第2のケースは、銀行と企業との間の取引関係のリストラクチャリングに根差したものであるため、自己資本の増強だけでは問題の解決にはつながらない。つまりは、先にも述べたとおり、日本の銀行は、これまでの間、護送船団方式と称される手厚い銀行保護政策の下でメインバンク制というある意味で銀行と企業との運命共同体的な取引関係が市場原理に優先され、借り手の信用リスクに応じた貸出金利が適用されることはほとんどなかったのである。それが日本版ビッグバンをはじめとする金融グローバル化の流れのなかで自己責任原則の徹底が求められるようになったのを契機として、銀行としては取引企業に対しそのリスクに応じた貸出金利の受け入れを求めてきたのに対し、借入企業がそうした要請を拒否したと考えられるのである。
このケースについては、銀行が市場原理に基づく本来あるべき行動をとりはじめたことを示すものと解釈できる。それゆえ、日本版ビッグバンの理念に照らし合わせると、むしろ評価すべき行動ともいえる。この場合、必要とされるのは、借り手企業における意識の変革であり、市場における自らの信用度を率直に評価のうえ、銀行との間で冷静に条件交渉を行うことが求められる。