2. 銀行の不良債権問題の本質はどこにあるか

不良債権の発生は銀行と借り手企業の共同責任

 1997年10月以降、「貸し渋り」というテーマで銀行による与信削減の動きが大きな注目を集めるようになった。すなわち、膨大な金額にのぼる不良債権を処理するためには赤字決算が不可避となるが、その結果、赤字決算金額分だけ自己資本が毀損される。ここまでは一般事業法人と同じである。しかし、銀行の場合、財務内容の健全性維持を狙いとして自己資本比率規制が課されているため、自己資本の減少は直ちに貸出を中心とした総資産の圧縮を意味する。銀行からみた場合、こうした資産圧縮行動は経営の健全性維持という観点から必要不可欠なものであり、私企業としてはむしろ当然の行動とすらいえる。その一方で、借り手企業からみると、銀行の資産圧縮行動はたまったものではない。銀行が貸出を減少させるということは、少なくとも借入交渉に費やす労力も大きくなる結果、有形・無形の追加的なコストが発生するということを意味しているため、追加的なコストを負担しえない限界的な企業においては、借り入れが不可能になることすらありうるからである。それゆえ、銀行による与信機能の急激な低下を食い止め、資金の円滑な循環を維持するためには銀行の自己資本を充実させる以外に途がないとして、1998年3月および99年3月の2度にわたって銀行に対して公的資金による資本注入が行われた。このように、銀行に対する公的資金注入に至る過程での議論や考え方は非常に論理的なものであり、それ自体批判できるものではない。
 もっとも、今から振り返ると、銀行による与信機能の回復が最優先されるあまり、銀行が資本注入を受けなければならない事態に陥った背景に関する冷静な検討が十分行われていなかったように窺える。とりわけ、銀行が抱える多額の不良債権に関しては偏に銀行の無節操な融資姿勢がもたらした結果であり、銀行自らがその処理を行うべきという見方が従来から根強い。もちろん、こうした見方はいわゆるバブル期に過剰なまでに拡大した不動産関連融資のほとんどがその後に返済不能の状態に陥っているという事実を挙げるまでもなく、マクロ経済的なレベルでは首肯せざるをえない。しかし、銀行と借り手企業との関係というミクロレベルにこれを引き戻して考えた場合、様相はかなり異なってくるように窺われる。
 すなわち、85兆円にものぼるとされる企業の過剰設備の存在自体が端的に物語るように、不動産、建設およびノンバンクといったいわゆるバブル3業種にとどまらず、その他の借り手企業も、バブル期に顕現したユーフォリアのなかで収益性の低い資産や株式、土地などに対する投資を積極果敢に増やしたことが仇となって、その後の経済環境の変化に起因する業績悪化やキャッシュフロー不足に悩まされているという姿が浮かび上がってくるのである。図表1はバブル期にはわが国企業が全体として、借り入れをてこにしてこうした資産への投資を大きく積み上げていったことを示している。ちなみに、法人企業統計年報によれば1998年3月末現在、わが国企業の総債務残高(長・短借入金と社債の合計、割引手形は除く)は621兆円、名目GDPの123%にも達する一方で、経常利益は28兆円、当期利益に至ってはわずか8兆円にとどまっている。これらの数値については後で詳しく論じるが、債務残高に対してわが国企業が稼ぎ出す収益は平均的にみて過小となっており、毎年の収益によって借金を返済するには相当の年数がかかることを意味している。これは、別の言い方をすれば、本来であれば市場において優勝劣敗の原則に基づき淘汰されるべき企業の存続が許されてきたとも解釈できる。

有効に機能しなかった借り手企業に対する監視

 加えて、わが国の場合、資本市場が十分発達していないこともあって、企業の資金調達に占める銀行借入依存度がきわめて高い。間接金融優位といわれる金融構造の下で、銀行が長期間にわたってリスクマネーを実質的に供給すると同時に、借り手企業の倒産リスクをも株主に代わって負担してきたのである。その結果、借り手企業の経営パフォーマンスの悪化が銀行資産の健全性、さらには銀行の信用仲介機能に強い影響を直接及ぼすことになったのである。このことはまた、銀行の不良債権の裏側には、借り手企業の過剰設備、過剰雇用および過剰借入、あるいは資産収益率の低位安定という事実が厳然として存することを意味している。それゆえ、すでに発現している不良債権の償却といった銀行のバランス・シート調整に加え、これら3つの過剰問題を同時に解決しなければ、日本経済の本格的な回復は望めないのである。
 アメリカに代表されるように、資本市場が発達した国においては、企業は資金調達に際し不特定多数の投資家、もしくはその集合体としての市場と向き合わざるをえない。そうした投資家の多くは借り手企業による資金返済能力、あるいは将来における収益性予想を重要な基準として投資判断を行っており、当該企業の倒産リスクに見合った投資利回りが確保されていることが投資に際しての当然の前提とされている。これを借り手企業側からみると、資本市場において資金を調達するに際しては、投資家が要求する最低利回り(これを資本コストという)の支払いを約束することが必須の条件となっており、これを満たせなければ資金調達はできないという冷徹な現実に直面することを意味している。このため、個々の企業においては、資本コストを上回る投資利回りを確保しうる投資プロジェクトの開発・発掘に専心するとともに、当該プロジェクトの収益率予想の算出に際してはダウンサイド・リスクをも加味したうえで慎重に見積るよう誘因づけられている。こうした資金調達行動を媒介として、資本市場が発達した国々における企業の投資判断は市場において常に監視され、厳格に規律づけられているのである。
 しかし、わが国の場合、銀行借入という資金調達手段が支配的であったことから、資本市場を通じた企業に対する監視・規律づけ機能はこれまで有効に働いてこなかった。むしろ、後で詳しく論じるように、護送船団システムの下、銀行においては取引先企業を倒産から守ることが暗黙のうちに前提とされる一方、借り手企業も特定の銀行をメインバンクに指名することで「いざ」という場合に備えるという、一種の「もたれ合い」構造が醸成されてきた。もちろん、こうしたシステムにも、@ビジネスチャンスを機動的に獲得できる、A長期的な視点に立った経営が可能となる、といった利点はある。しかし、その一方で、貸し手による借り手の救済を前提とした、いうならば借り手企業の市場からの退出口を塞いだ経済システムにおいては、借り手企業が新規投資にあたって必要とする予想投資収益率は倒産リスクがない分だけ低くなる。つまり、借り手企業は市場で淘汰される恐怖から解放される結果、収益性よりも量的拡大を経営戦略として重視するよう誘因づけられる。そして、仮に約定した借入金利が支払えなくなっても銀行は元利金の返済猶予などを通じて支援してくれるため、企業の投資採算意識はさらに後退し、究極的にはそれがマイナスでさえなければよいという感覚すら生まれてくる。
 このような日本の企業金融面での特色をも踏まえて不良債権発生の背景を探っていくと、間接金融優位という構造の下で、銀行による融資姿勢の弛緩に加え、借り手企業も採算を慎重に吟味したうえで投資を実行するという行動原則を軽視し、量的拡大戦略に傾斜していたことを基礎的条件として、銀行資産の健全性が潜在的に脆弱化していたところに、資産価格の大幅下落および景気後退が引き金となって不良債権が顕現したということができる。

銀行はなぜ不良債権処理を先送りしてきたのか

 しかし、もっと本質的な問題は、バブル崩壊後8年もの長きにわたって、銀行は不良債権処理をなぜ先送りしてきたのか、あるいはdebt overhangの解消はなぜ容易ではなかったのかという点に求められる。この問題に対する意見は概ね、次の2つに分かれる。すなわち、ひとつは銀行に好意的な立場あるいは銀行性善説に立った考え方に基づくものであり、銀行は、産業の育成や雇用の安定化といったマクロ経済的な観点を重視し、経営不振に陥った借り手企業の支援を意図して不良債権処理をラディカルに行おうとしなかったという意見である。そして、もうひとつは銀行に批判的な立場からの意見であり、銀行はあくまで自らの決算をよく見せたいがために本来行うべき不良債権の適切な処理を先送りしてきたという意見である。この2つの見方のどちらも間違いとはいえない。むしろどちらも正しいとさえいえるかもしれない。
 というのも、銀行は事実として、戦後50年もの長期間にわたって護送船団方式と称される手厚い保護行政の下に置かれてきた。しかし、ここで留意しなければならないのは、そうした銀行保護行政自体、日本経済復興のための牽引役としての役割が期待された産業に対する資金の安定供給や、企業経営の自律性維持を目的として構築されたものであり、銀行はこのシステムの歯車のひとつに過ぎなかったという点である。すなわち、銀行に対しては政府による保護政策の見返りとして、マクロ経済の安定化という公共目的達成のため、暗黙のうちに資金・資本の両面から危機に陥った借り手企業を支えることが求められていたのである。これがメインバンク関係と呼ばれるわが国独特の銀行取引慣行の底流を形成する考え方であり、実際、銀行職員においても、そういった公共的使命の達成が当然のこととして意識されていた。
 それゆえ、銀行の経営者や貸出担当者が複数行取引における自行貸出の安全度を検討するに際し、「いざという時には経営危機に陥った借り手企業のメインバンクが救済措置を講じるため、自行の貸出資産の安全性は最終的には確保されている」と考えたとしても何ら不思議ではない。また、そうした意味から、メインバンクが支援を表明した借り手企業に対しては、メインバンク以外の銀行も支援に同調するという慣行が生まれるのも、ごく自然なことであった。そうした日本独特の銀行取引関係を前提として過剰設備、過剰雇用および過剰借入問題の解消が先送りされるなかで、地価、株価といった資産価格が予想に反して大幅かつ持続的に下落したことから、銀行資産の健全性がさらに損なわれることになったと考えられる。
 しかし、その一方で、銀行経営者において、自らの成績表ともいえる決算書を良く見せようとする誘因が一切働かなかったとはいい切れない。実際、銀行経営者が株主利益の最大化を目指しているのであれば、貸付債権の回収に強い疑義が生じた時点で貸出債権の損切り=償却を行うのが当然と考えられるが、そうした動きが自律的に広範化することはなかったほか、不良債権に関するディスクロージャーについても決して積極的ではなかったといえる。また、国有化された一部の銀行などにおいては、ペーパー・カンパニーを使った不良債権の「飛ばし」行為の存在が多数報道されているあたり、こうした見方を肯定しているともいえる。この点に関しては、わが国においては株主や預金者が銀行経営者を監視するという市場のチェック機能が有効に作用していなかったとする論者もみられるが、そうした見方に与することはできない。というのも、わが国の場合、株式の相互持ち合い慣行の下、銀行株主の過半は運命共同体的、あるいは直接的な利害関係者である生命保険会社や借り手企業からなっているため、経営危機に陥った企業に対する金融面からの支援は株主から是認されていたとも考えられるからである。
 このように考えると、不良債権処理の先送りは、護送船団方式という銀行保護システムの下で、銀行の悪意と善意が微妙に絡み合うなかでなされてきたものと結論づけることができる。それゆえ、銀行の当時の判断が悪意によるのか、それとも善意に基づくのかを議論の中心に据えてこの問題を論じようとすることは、少なくとも現時点においては証拠に乏しいだけでなく、非生産的な議論といえよう。むしろ重要なのは、どうすれば銀行が再度公的資金を必要とするような事態に陥るのを防止できるかを議論・検討することではなかろうか。そのためにも、不良債権の発生にとどまらず、銀行が多額の公的資金に頼らざるを得ないという前代未聞の事態に陥った背景を冷静に分析することが求められるといえる。

なぜ銀行は公的資金に頼らざるをえなかったのか

 では、銀行はなぜ公的資金に頼らざるをえなかったか。こうした疑問を投げかけると直ちに、「銀行がリスクの高い企業に貸し込んだため」という回答が多数寄せられる。しかし、本当にそうなのだろうか。あるいは、リスクの高い企業に融資すること自体、果たして問題なのだろうか。仮にそうだとすると、開業直後のベンチャー企業のようなリスク度の高い企業に資金を融通することは許されなくなり、その結果、未来の産業の担い手は永久に生まれ得なくなるであろう。社会的な公平性の観点からはもちろん、金融の基本機能から判断しても、これはおかしい。金融とは、資金的に余裕のある主体が一時的に資金不足に陥っている主体に資金を融通することにより、資金の効率性を全体として高めることを通じて、経済全体の厚生を向上させようとする社会的な仕組みである。
 借り手はその時点で資金が不足しているからこそ借り入れをするのであって、そうした意味からは借入直後においては当然、返済能力はない。その意味で、安全な借り手など、本来ありえないともいえる。返済力は借りたお金で実行した投資プロジェクトが期待どおりに成功した暁に初めて生じてくる。また、たとえ現時点で借り手が仮に安全であったとしても、返済期限までの間に信用状況が悪化するおそれも多分にある。このように、資金を融通するという行為は、多かれ少なかれリスクを伴う。さらに、社会的な要請に基づいて新産業の育成という観点から銀行に対し、比較的リスクの高い借り手企業向け融資の実行が求められることもありうるであろう。言い換えると、銀行には、貸し倒れリスクの高い借り手を敬遠するのではなく、そうしたリスクを適切に管理したうえで果敢に融資を実行していくことが求められているのである。
 いうまでもなく、貸出金回収の源泉は借り手の事業から得られる収益であり、借り手の事業が予定どおりに進捗するか否かが貸出金の回収可能性を最終的には左右する。このため、銀行は通常、貸出の実行に際し、事業の将来性やリスクを多角的に評価・判断したうえで、リスクに応じた貸出金利の設定を媒介としてそのリスクを吸収しようとする。このように、投資プロジェクトのリスクとリターンとの関係に配慮のうえ貸出金利が適正に設定されていると同時に、貸出ポートフォリオが業種・地域・資金使途別に十分分散されていたならば、不良債権の増大による貸し倒れ損失の多発から、銀行の自己資本が大きく毀損されるという現下の事態には至らなかったはずである。特定部門への融資の集中およびリスクに見合った貸出金利の設定の不徹底が現下の不良債権問題の背景にあり、その意味で、バブル期に銀行の与信リスク管理が易に流れたという事実は否定できない。

担保至上主義と銀行の失敗

 わが国では、これまでの間、「銀行は信用力の劣る中小企業には担保がなければ絶対にお金を貸してはくれない」という批判が中小企業を中心としてしばしば聞かれた。ただし、担保とは本来的には、将来における不測の事態に備えた信用補完あるいは借り手に約定どおりの返済を誘因づけるための一種の道具であり、貸出金の主たる回収原資ではない。高度成長時代、わが国経済は全体として資金不足の状態にあり、その結果、銀行貸出市場においては恒常的に超過需要がみられ、信用割当が常態化していた。そうした状況下、中小企業からの借り入れ要請を圧縮させるための手段として担保の有無が融資交渉の前面に押し出された。その後、バブル期には地価の急騰を背景として、土地を処分さえすれば元利金の返済が容易くできたため、銀行間の収益競争が熾烈化するなかで、借り手の返済力を判断するという本来の与信審査が後退する一方、土地担保さえあれば融資するという風潮が強まり、借り手企業においては上記のような担保至上主義というイメージが確立したと考えられる。
 この担保至上主義という批判が示唆するように、銀行が担保により貸出債権を十分保全しているのであれば、不良債権は担保処分により回収できるはずであるが、全体的にみても担保処分による債権回収は最近ようやく始まったばかりである。というのも、ひとつの土地に時価の数倍にも達する多数の抵当権が設定されるという事例が示すように、銀行による担保の審査・管理が必ずしも十分ではなかったため、いざ担保物件を処分して回収を図ろうとしても、貸出元本に対して、ほんのわずかの額しか回収できないという事態が多発しているからである。競売による回収率が元本の20%にも満たないこと自体、銀行の融資審査・債権管理姿勢に甘さがあったことを物語っている。しかし、その一方で、銀行の担保至上主義という借り手からの批判を裏側からみると、担保さえ準備すればそれほど不満のない条件で銀行からお金を借りられるという意識が企業経営者のなかにあったということも指摘できる。もちろん、かつては同じく中小企業を中心に「銀行はその優越的な立場を利用して暴利をむさぼっている」という批判も多く聞かれたが、歩積・両建預金の廃止や金利自由化の進展を背景として、近年、そうした批判もほとんど聞かれなくなっている。そして、その分、担保面での批判が目立つようになったと思われる。
 このように、担保至上主義という批判にもかかわらず、担保が信用補完措置として有効に機能しなかったこと自体、担保に対する認識・管理の甘さもさることながら、担保を返済原資の一部と認識のうえ本来重視するべき信用リスクを無理に矮小化し、リスクに対応したリターンの確保という融資の基本原則を銀行が放棄していたことを示唆しており、むしろこちらのほうが問題だといえる。換言すると、銀行は融資実行に際しリスクに見合ったマージンを確保するという基本原則の遵守を怠った結果、貸出ポートフォリオの抱えるリスクとの対比でみて過少資本の状態に陥り、自己資本で不良債権を処理することができなくなったのである。

総合取引採算概念も信用リスクの軽視に寄与

 また、銀行による収益管理に際しては従来、総合取引採算という言葉が多く聞かれた。総合取引採算とは個々の企業との間における取引での全体としての収益状況の管理を意味する概念であり、この言葉自体、表面的には銀行が顧客の取引実態を総合的に把握のうえ価格付けを行っているかのような印象を与え、耳障りの良い言葉といえる。しかし、関連子会社も合わせた借り手企業グループ全体としての取引採算管理において使用する場合は別として、実態は「安売り」容認のためのマジック・ワードであり、国際業務や証券業務が改正外為法や改正銀行法の施行という法制面での整備を追い風として拡大しはじめた80年代など当初はともかくとして、少なくとも近年ではポジティブな場面においてよりもむしろ、ネガティブな場面において使用されることが多かったといえる。
 常識的に考えれば、個別取引ごとの採算の合計が総合取引採算となるはずである。そうであるならば、収益極大化のためには個別取引ごとの採算管理で十分であり、総合採算管理はあえて必要とされない。それにもかかわわらず、総合取引採算を個々の企業との取引採算を議論する際の重要な基準に据えるということは、実は預金・貸出取引の個別採算が赤字となることすらあったことを暗に示唆しているのである。問題は、この赤字取引の多くが貸出部門に偏在しているところにある。ここ20年間続いている銀行貸出市場の借り手市場化を背景として借り手企業の銀行に対する優位性が大きく高まり、そうしたなかで、借り手企業からの値引き要請は極限にまで高まっていった。企業の財務担当者から出てくる殺し文句は「そうした値引きに応じなければ既存取引を見直す」であり、既存取引を切られたくない銀行はトータルの収益で従前との比較においてマイナスにさえならないのであればと貸出金利を大幅にディスカウントする。
 その結果、貸出金利は借り手企業の信用リスクをまったく反映しない低い水準に収斂しただけでなく、その他の取引で得ている収益が小さい場合は、新規の貸出に随伴するリスクを総合取引採算全体ですらカバーできないという事態まで発生するに至ったのである。信用リスクや市場リスクについては、ひとつのポートフォリオを特性の異なる多数の債権により構築するという分散投資の手法を用いれば、理論上はゼロにまで低減させることができる。しかし、信用リスクの場合、分散投資の利益は個々の資産に関し信用リスクに対応した適正なマージンが付されていることが大前提となっており、現在のように適正水準を大きく下回っているマージンが付されている限り、分散投資の利益も十分えられない。この面からも、銀行の経営基盤は脆弱化しているといえる。
 こうした事態を改善するためにも、貸出マージンの適正化が求められる。信用リスクにかかわる取引においてダンピングがあってはならないのである。もちろん、これは銀行間の競争を批判するものではない。信用リスクを伴わない、例えばフィー・ビジネスなどの領域においては銀行間の競争をさらに促し、利用者コストの低下に努める必要があるのはいうまでもない。その一方で、銀行は自らの手により能動的に管理できない借り手企業の信用リスクについては、そのリターン(貸出金利)に最低限の防衛線を設けるというのも一案かもしれない。

信用リスクの軽視がもたらした資本市場の未発達

 しかし、リスクに見合った適正な貸出金利を銀行が徴収してこなかった責任のすべてを銀行に帰すことはできない。一部の論者は貸出金利のダンピングはわが国のオーバーバンキングに由来するものであり、オーバーバンキングを解消しない限り貸出金利の適正化はありえないと指摘している。しかし、同時に借り手企業も銀行貸出市場の借り手市場化を背景に、適正な水準での貸出金利支払いを拒んできた側面があったことも見逃してはならない。
 借り手企業の財務担当者にとって借入金利はあくまでもお金の「仕入れ値」であって、そうしたコストの削減に努めることが職務として期待されている。しかし、そうした努力のなかに一部「行き過ぎ」があったという印象を受けるのも事実である。例えば一部の大手企業の財務担当者はかつて、銀行からの資金調達に際してのターゲット金利はLIBOR(ロンドン銀行間市場における出し手金利)レスである旨、公言していた。また、同じく一部の大手企業においては最近、社債発行では数%にものぼるリスク・プレミアムの上乗せを要求されるため、割安な銀行借入による資金調達のウェイトを引き上げる旨表明している。このように、わが国では一般事業法人による資金調達に関し経済合理性に適わない言動が多数みられる。
 もちろん、現在においては、わが国の銀行を上回る高い社債格付けを有する事業会社は多数みられる。その意味からは、そうした高格付けを有する事業会社が銀行間の取引金利を下回る金利で資金を調達することは、一見すると何ら不思議ではないかもしれない。ただし、銀行間金利といっても、実はLIBORフラットで調達できるのは欧米の一部の大銀行のみであり、格付けの低下した日本の銀行は、LIBORにジャパン・プレミアムと呼ばれるマージンを上乗せしなければ資金を調達できない。こうした銀行間取引の実態を踏まえると、LIBORレスでの調達という発想そのものがいかに理屈に適っていないかがよくわかる。
 また、社債と銀行借入との間にみられる調達金利の格差も、資金の出し手と借り手との間に存する情報の非対称性という観点からある程度は首肯できるかもしれない。すなわち、不特定多数の投資家を引き受け対象とする社債発行の場合、投資家が入手できる発行企業に関する情報は概して画一的なものとならざるをえない。これに対し、銀行借入の場合、長年にわたる取引関係のなかで各種の情報が銀行のなかに蓄積されているため、銀行は一般投資家よりも借入企業の経営財務内容を適切に判断できる。銀行のほうが社債投資家よりも質・量の両面において情報優位にあることは歴然とした事実であり、それゆえ、銀行の貸出金利のほうが一般に社債金利よりも低い水準に設定される。ただし、これも程度の問題である。一部のトリプルB格(投資適格等級中最下位にあたる等級)を下回るような企業では社債発行に際し7%程度のクーポンレートを要求されるが、銀行借入では今でも引き続き3%程度の金利が適用されている。この4%以上にも及ぶ金利格差は情報の非対称性で説明できる範囲の外にあり、銀行貸出市場の価格体系がリスクを適切に反映したものから大きく乖離し、価格体系そのものが壊れてしまっている事実を端的に物語っているといえる。

貸付債権の流動化、証券化も阻害される

 こうした銀行貸出市場における価格機能の崩壊は、銀行の過少資本とそれによる不良債権処理の失敗を招来したのみならず、資本市場に対しても思わぬ影響をもたらした。つまり、銀行貸出市場が安売り市場と化したため、一般事業会社においては資本市場でわざわざ高い金利を支払ってまで借りる必要はないとして銀行貸出市場に頼るという傾向が極端に高まった。その結果、累次にわたる規制緩和措置の実施にもかかわらず、日本の資本市場が発達する機会は借り手企業の経済的誘因から大きく損なわれてきたのである。こうした事実が、中小企業のみならず、本来は資本市場で資金調達を実施すべき大企業も今なお銀行借入に大きく依存しているという、欧米主要国に例を見ないわが国独特の資金調達構造の背景を形成しているということができる。
 このほか、例えば、SPC法および関連法制の整備にもかかわらず、貸付債権の流動化や証券化が期待されたほど進んでいないのも、この価格体系の崩壊に起因する。確かにSPC法の成立を受け、発行する証券をオリジネーターリスク(証券化対象となる債権を保有する原債権者の倒産によって証券化スキーム自体が成立し得なくなるリスク)から隔離することが容易となったほか、税制面での手当てなどにより証券化に必要なコストも大きく低下するなど、SPCの使い勝手は格段に向上した。しかし、投資家からみた場合、そうしたリスクやコスト以上に重要な貸出金利、すなわち投資証券から得られる利回りそのものが借り手企業の信用リスクを適切に反映した公正な金利から大きく乖離した水準にとどまっているため、わが国においては期待されたほど証券化が進んでいないのである。
 いずれの水準が借り手企業の信用リスクを適切に反映した公正な金利かという点に関しては種々の議論がありうるが、少なくとも大多数の人々が妥当と認めた金利が公正な金利に一番近いといえよう。そうした観点からすると、少なくとも多数の投資家が参加し、その間で取引が日々活発に行われている市場で形成された金利こそが公正な金利であると考えられる。貸出金利がこうした公正な金利と位置づけられる社債利回りを下回っている場合、何が起こるのだろうか。貸出債権を流動化、証券化するということは、大雑把にいうと、その名のとおり貸付債権を社債に変換することと同義である。同じものに2つの値段、つまり一物一価が成立せず、一物二価になったらどうなるだろうか。当然、資金の提供者は金利の高い商品に群がる一方、資金の需要者は金利の低い商品に集中する。その結果、需給はいつまで経っても一致せず、市場は機能麻痺に陥る。そして、一物二価をもたらす取引自体が成立しない。ここでは、このことは貸付債権の証券化が成立しないことを意味する。

貸し渋りも価格体系の歪みがもたらした結果と考えられる

 実は、貸し渋りについても、こうした価格体系の歪みがかなりの程度寄与している。貸し渋りとはその名のとおり、銀行が新規の貸出や既存貸出の継続を渋ることであって、決して銀行が貸出を全面的に停止することを意味しない。もちろん、借り手からみた場合、長年の取引関係のなかで築かれた信頼関係の下で暗黙のうちに合意していると信じ込んでいた融資が突然打ち切られる事態に遭遇するというのも、たまったものではない。しかし、貸し渋りは世間でいわれているように「いきなり」の出来事だったのだろうか。直感的な議論かもしれないが、この「いきなり」には幾分か語弊があるようにみえる。というのも、銀行が貸し渋る場合、その究極の目的は既往融資の確実な回収にあり、借り手いじめが目的ではないからである。実際、下手なことをして借り手が潰れてしまっては元も子もなくなってしまう。それゆえ、融資回収という究極の目標を達成するうえで最も合理的な方法は、借り手に対し自発的に借金を返すように仕向けることであり、また、返せる環境を作り出すことである。そのためには、少なくとも借り手に準備期間が必要なことは誰が考えても明らかであり、銀行は事前に何らかのサインを送っているはずと考えるほうが自然である。
 それでは、そうしたサインはどこにあったのだろうか。多分、追加担保の差入れ要請や貸出金利の引き上げ要請など、貸出条件の改定要請というかたちで借り手に伝えられていたと思われる。しかし、借り手としては「銀行は値切ればなんとかなるし、最終的にむげなことはしないはず」と思い込み、銀行からの条件改定交渉を熟慮することなく却下してきたのではなかろうか。わが国の貸し渋り論議では、不思議なことに資金の貸し手として銀行だけが槍玉にあがっている。わが国には銀行も多いが、ノンバンクも多い。銀行は確かに全体として貸出を絞ろうとしているが、ノンバンクのなかには好業績を背景として積極的に融資勧誘を行っているところも少なくない。もちろん、こうしたノンバンクでは、その資金量からみて大企業の資金ニーズを十分に賄うことはできない。しかし、中小企業、とりわけ銀行から貸し渋りにあっているといわれるような借り手企業からの資金ニーズであれば、かなりの部分がノンバンクでも対応可能と判断される。
 しかし、中小企業が貸し渋り対策としてノンバンクからの調達を増大させたという話は聞かない。また中小企業の資金調達に関するアンケート結果を集計した図表2 にみられるとおり、今後についても大半の企業がノンバンクは利用したくないと考えている。それでは、中小企業はなぜノンバンクを利用せず、銀行批判を繰り返しているのだろうか。もちろん、全部がそうとはいわないが、このこと自体、「銀行は最終的にはむげなことはしない」という発想が企業経営者の頭のなかにあったことをいみじくも示しているように窺われる。この「担保は出せない」、「高い金利も払えない」、「でもお金は貸してもらわなければ困る」という借り手企業の対応姿勢そのものが、銀行の貸出金利をそのリスクに見合った適正な水準から大きく乖離させることになったのである。このように考えると、追加担保の提供や金利の引き上げなどといった条件改定要請があった後、交渉決裂の結果として銀行が融資を回収したり継続を拒否することは、私企業として当然の行為ともいえ、一律に非難されるべきものではないとはいえる。

抜本的な貸し渋り対策は貸付金利の適正化以外にありえない

 このように銀行貸出市場における価格体系の歪みが資本市場の未発達、貸出債権流動化・証券化の停滞、貸し渋りなど、早期解決が求められている現在の金融問題のほとんどを引き起こしている。加えて、金利体系の歪みは、表面的には低い借入金利というかたちで借り手企業に利益をもたらすようにみえるが、その一方で、資本市場の発達を阻害しているため、銀行が融資姿勢を硬化させた場合には一瞬のうちに資金繰り不安に見舞われるなど、借り手企業における資金調達の脆弱性をもたらしているという側面にも着目する必要がある。
 また、景気浮揚を狙いとして、これまで幾度となく日本銀行は金利を引き下げてきたが、残念ながら、それが目に見えるかたちで景気を刺激するまでには至っていない。これは、偏に銀行という1ヶ所しかない資金パイプの蛇口が詰まっていたため、金融政策の効果を非金融セクターに広く浸透させられなかったことに起因していると思われる。1980年代後半のアメリカにおいても、同じく不動産融資などの焦げ付きから銀行による貸し渋りが発生した。アメリカの金融当局は金利引き下げを媒介として早期の経済回復を実現させていったが、それは資本市場が発達し、金融政策の効果を資本市場を通じて普及させることができたからである。
 以上まとめると、護送船団と称される手厚い銀行保護行政の下で非効率的な銀行経営が容認されてきたが、そうした保護行政の最終的な受益者は実は借り手企業であり、その結果、過剰借入、過剰設備、過剰雇用に代表されるように、企業部門にもさまざまな歪みをもたらしたのである。つまり、戦後のわが国の金融においてはキャッチアップ体制の下、経済成長に不可欠な産業資金の供給が最優先され、価格メカニズムが適正にビルトインされて来なかった結果、非効率な主体の退出を通じて市場を効率化させるという本来の市場メカニズムが有効に働かない状況に陥ってしまったのである。それゆえ、こうした事態を改善のうえ、わが国における金融機能の健全化を図るためには、銀行貸出市場における価格形成の歪みを是正し、リスクに見合った適正なリターンが形成される市場取引環境を作るしか途は残されていないといえよう。