緊急提言
マネタリーベースの持続的拡大宣言の慫慂

1998年7月27日

1. 現在の景気局面の特徴:デフレは物価面でなく実物面を直撃

 デフレ・スパイラルという言葉が状況に対して多用されるようになった。しかしこのデフレなる表現は、時に誤解を生みやすい。もし物価の下落の下げ止まりが見られるならば、これ以上の経済状況の悪化は避けられるのでは、との判断に結びつく可能性があるからだ。
 しかし急速な下降を続ける今日の日本経済の特徴は物価面にあるのではなく、設備投資や生産という実物面にある。総合卸売物価指数は98年2月から対前年同月比で今回の下降局面で始めてマイナスとなった。しかしこの時の指数100.6はその後100.3となったが、6月には101.0となり、累積的に下落するという動きにはなっていない。対前年同月比では6月でマイナス0.3%にとどまっている。
 これに対して受注や生産面では月を追うに従って悪化、景気の底が抜けるとの懸念さえ生じている。船舶と電力とを除く機械受注額は5月には対前年同月比でマイナス28.6%にまで低下した。鉱工業生産指数も5月には同じくマイナス11.3%にまで低下している。昨年10月以降は、受注額や生産統計の下降に月ごとに下方への加速が生じているといわねばならない。物価面ではさして異常は生じていないが、実物面での落ち込みは過去に例を見い出しにくいほどのものとなった。新しい視点からの経済研究が開始されなければならないのはこのためである。

2. なぜ金融政策の展開の余地をさぐる研究なのか

 景気が回復途上にあったにもかかわらず、1996年10月からは銀行の貸出残高が対前年同月比でマイナスとなった。また同年の8月末以降は長期金利は明白なマイナスへの方向性をもつようになった。ところが、こうした金利低下にもかかわらず、株式の市場価値は一層の低下をたどることになった。そもそも証券の市場価値は将来にわたって受け取る不確実なペイオフの現在価値にほかならない。長期金利の低下は割引率の低下であり、他の事情にして等しければ、株式の市場価値の上昇につながるはずである。これを金利と証券の市場価値との裁定理論という。日本では1996年以来この裁定理論が有効ではない。これに対比すると米国ではバブルとの声が一部にあるが、裁定理論は明瞭に効いている。

 1997年10月1日は日本の長期国債の利回りが、世界の歴史の中で最低であった1941年の米国での1.85%を下回る記念すべき日となった。貸出残高が減少するなかで、金利が産業革命以来の、世界の200年以上の歴史になかった異常低金利となったのである。1997年11月の金融機関の相次ぐ破綻の発生はこうした異常なデフレ現象の中で生まれたといえよう。
 1995年9月以来、公定歩合は0.5%という異常な低水準を続けている。このため、たとえ日銀貸出金利である公定歩合を更に低下させたとしても、その効果は限られている、との受け止め方はかなり広範にある。それでは有効な金融政策の手段は何もないのか。
 金融政策の有効性を試す余地はあるはずだ。なぜならば消費者や需要家の動向を確実につかみ、これに対して積極的に提案を繰り返していく胆力がある企業経営者までもが、不動産や機械機材や原料などの値下がり予測から、ことごとくといってよいほどwait and see(手控え)に陥っているからである。こうした状況を逆転させるためには次の3点を満たすような策が必要となろう。

  1. 経済状況に対して責任のある当局者の状況に対する明白な踏み込みがなければならない。
  2. この点についての意思決定の明瞭性が正確に民間の経済主体に伝わるためには、関与する経済指標が十分に制御可能なものでなければならない。
  3. デフレ状況に歯止めを取り敢えずかけるためには、政策手段の採用についても、その効果についても速効性のあるものでなければならない。

 ここから研究にあたって次のような設定を行った。

  1. 当事者としての日銀を選び出す。
  2. 政策手段として公定歩合の引き下げとマネーサプライの増加を二の次と位置づける。
  3. 制御変数としてマネタリーベース(日銀の負債としての現金通貨+日銀預け金)を選び出す。
  4. 目的を企業経営者に対する積極対応の誘い、とする。

 文部省統計数理研究所の北川源四郎教授グループとの共同研究は以上のような問題に関する意識と設定から開始された。「貨幣は重要だ」という局面は、経済の軌道からの逸脱にあっても、また軌道への逸脱からの回復にあたっても確認されることであろう。

3. なぜマネタリーベースを操作変数として選んだか

 推定した時系列モデルは、日本の経済の内部の経済変量の短期的な変動の相互関係を示すものである。シミュレーションの結果は、陥った状況がいかに厳しいものであるかを示している。従来行なわれてきた程度の経済政策が持続する限りにおいて、停滞を脱する事は難しく、まして東アジアからの輸入を増やすことによって、東アジアの経済回復に寄与することなど夢のまた夢だといわねばならない。
 そこでわれわれは経済政策の展開の余地を探った。状況は月ごとに悪化しているのが実際なので、政策については速効性が不可欠である。日銀がマネタリーベースを対前年同月比で12%増で固定した時、他の変数にどのような変化が生ずるかを実験してみた。マネタリーベースの伸び率が12%というのは、1980年代後半のいわゆるバブル期に相当する。思い切った数量的緩和に日銀が踏み出していることを示している。
 マネーサプライではなく、なぜマネタリーベースなのか、という設問がある。民間の非金融セクターの決済手段であるマネーサプライは、民間の経済活動との間に密接な関係がある。しかしマネーサプライの増加が経済に影響を及ぼすのに12ヶ月前後を要するうえ、今日の日本のように民間金融機関がいわゆる貸し渋りに追い込まれている状況においては、そもそもマネーサプライを増加させることが容易ではない。民間の非金融部門の経済主体に直接的なメッセージを伝え、それを通じて積極的な行動を民間経済主体から導き出す必要がある。そのためにはマネタリーベースの増加の方が手段として明瞭であるし、また日銀は即座にこの変量を調節できるという速効性もある。

4. 調整インフレ論は排除

 デフレからの脱却にあたって調整インフレという策をとったらどうか、との声も出始めた。マネタリーベースを一時的に増やしたとき、卸売物価にどのような影響が及ぶのかをインパルス応答関数を使って点検すると、大きな影響は見られない。国債の利回りに対しても、やはり軽微な影響しかないというのが統計モデルからの結果である。そしてマネタリーベースの伸び率を一定値で保持しつづけた場合の応答をみても、物価に長期的にみて悪影響は及ばない、という意味において調整インフレ策の採用という姿は想定しにくいものである。なぜ物価を考えるうえで「貨幣は重要だ」とはいえないのだろうか。
 これまで日本が価格決定のメカニズムにおいてグローバル・エコノミーの構成員だということを白日のもとに示したことはない。しかし1993年から95年にかけての1ドル=100円割れの為替レートの実現は日本の物価決定の構造に根底的な変化を与えた。そしてわれわれの統計モデルは特定の日付はないものの、こうした構造変容を十分に拾い上げているといえる。物価の決定に関する限り「貨幣は重要だ」はいえないのであり、統計モデルが示すように、貨幣は物価を通すことなくしても、実体経済に影響を与えるのである。その意味においては「貨幣は重要だ」と言わねばならず、今日もなおわれわれに政策手段を残しておいてくれている、と解すべきであろう。

5. デフレからの脱却に一刻もはやい政策展開を

 推定されたモデルを前提にシミュレーションを重ねた結果、最も衝撃的だったのは日本経済の足元の陥落ともいうべき底割れが映し出されたことである。3月、4月、5月と月を追うに従って経済統計は悪化の一途をたどった。このことは機械受注額にも鉱工業生産指数にもそのまま表れている。陥落の尺度は同一の政策を採用したとき、回復軌道へ、いつまでに、どこまで戻すことができるのか、の検討を通じて得られると考えられる。病状が一ヶ月単位で悪化し、臨床医の処方箋が手後れに追い込まれる可能性が示唆されているというのが実態だ。同一の処方箋を採用しても、薬効の出方は時間の経過とともに随分と異なってしまったといえよう。
 昨年10月以降の経済の急速な落ち込みは、遅行指数であるはずの雇用統計にまで反映するようになり、年明けの時点ではもはや誰も否定できない状況となっていた。しかもタイにはじまった東アジアの経済危機が11月に入ると香港から韓国にまで波及し、ウォンの急速な下落のなかで早くも中国の人民元の動向に関心が寄せられるという国際状況になっていた。政策転換への踏み出しは11月でなければならなかったといえよう。遅くとも年明けすぐでなければならなかった。

6. 緊急提言1:日銀はマネタリーベースの持続的拡大宣言を

 推計された統計モデルに基づくシミュレーションは、マネタリーベースの持続的拡大宣言があれば、

  1. 企業家の投資意欲を十分に刺激することができる、
  2. 生産が回復する、
  3. 物価や金利に撹乱的な悪影響を与えることはない、

 という3つの望ましい成果につながる可能性を示唆している。もし問題があるとすれば円レートへの影響であろう。2001年にかけて、120円から180円の幅で推移する可能性があるからだ。
 昨年6月以降の円レートの推移は、円建ての資産である日本の株価の下落と同時に円安に振れることを示している。そしてこの円安が東アジア各地域でのそれぞれの株価の下落と重なっていることも無視できない。もしこうした動きとなれば、東アジア諸国を更に追い込むばかりでなく、このことは日本経済の先行きに暗雲を生じさせることにもなりかねない。これを回避するためには、別の政策を割り当てねばならない。

7. 緊急提言2:政府は政策割り当てに踏み出せ

 円安を回避しようとすれば、円建ての金融資産の価値を上昇させるような政策を果断に行え、ということにつきる。株価についていえば、キャッシュフロー(売上高マイナス総費用)の増大につながる各企業段階でのリストラやリエンジニアリングがなければ、上昇のきっかけを見出すことは難しいだろう。円建ての資産価値の改善をはかるためにはこれしかない。企業がこうした果断さを備えているかどうかが問われている。
 株価と並んで国債の評価も今や微妙である。16兆円の総合経済対策が決まるとムーディズが国債の格付けについてネガティブ(下方への修正の可能性)との発表を行ったことからも明らかである。ここでも政府投資が日本の経済余剰(キャッシュフロー)を拡大するようなものなのかどうかが問われている。社会的コストの引き下げにつながり、経済余剰が増大に転ずれば、税の増収を通じて償還財源も生まれるが、ムダな公共投資を続けているようでは、償還財源はどこにも生まれないのだ。
 円建ての資産価値を高めることを通じて、円高への流れをつくりあげることの重要性はアジア情勢との結びつきを考えたうえでも明らかである。このように課題を絞り込めば、この過程でもうひとつの重要な経済課題が待ち受けていることにわれわれは気づくことになる。それは産業構造の調整や各企業のリストラ等にともなって雇用情勢の悪化が進行することを覚悟せねばならないからだ。企業のリストラやリエンジニアリングを通じて、また公共事業の配分の変更を通じ、従来の職場が縮小する可能性は避けがたい。
 ここでも新しい公共的意思決定が不可欠となる。新しい産業構造への移行に伴い発生する摩擦的失業に対して、政府としても、また社会としても正面から取り組む決意を明らかにすべきである。失業の一時的増大を受け入れるとともに、働き手の再訓練に関わる自己投資を援助する仕組みを充実させねばならない。ともに転機を生きるという連帯感が日本社会の内部に生まれるかどうかも問われることになろう。

21世紀政策研究所

統計数理研究所 北川 源四郎 川崎 能典 佐藤 整尚