改革を総選挙の争点にする仕組みの開発
改革の構図と逆流の噴出
新しい時代への対応を迫られた企業群は企業改革(リストラクチャリング)の歩みを速める以外にはない、と考え、動き出した。そしてこうした選択肢の前途を阻むものがあっては困るのだから、経済改革を早急に実施して欲しい、と考えるのは当然であろう。経済的規制の撤廃、企業組織の変更にあたって柔軟性を保障する会社分割法制や株式交換手法の導入、連結納税制度を通じてのリスク負担の低減などの改革メニューが相次いだのはこうした企業改革を後押しするという趣旨であった。そして他方では企業改革の評価基準の明確化のために、市場における競争条件の整備についても期限を定めた新方針が対置された。2001年4月からのペイオフの解禁、2000年4月からの時価会計の導入、2001年4月からの連結基準の明確化などである。企業経営に規律を求めるためには、株主に必要な情報はすべて開示されるべきだ、という原則が公認されたのであり、また与信にあたってモラル・ハザード(経営倫理の喪失)につながる惧れのある一律の保険料率のもとでの大きな預金保険制度の廃止も当然のこととされた。したがってこうした改革の旗が降ろされる、という事態が想定されることはまずなかったといってよい。
ところが事態を正視しないという「先送り手法」が次々とまず表面化することになった。財政再計算というかたちで5年ごとに公的年金にかかわる負担と給付とが改定されてきた。1994年改正では給付の抑制と負担の増大とが織り込まれ、公的年金の持続性についてそれなりの枠組みが用意されたが、1999年改正にあったてはこうした持続性についての枠組みは機能せず、「先送り」されてしまった。このため公的年金に関する未積立て債務は今日もなお拡大している。この金額が年間の国民所得の総額に並ぶのは2001年のことになるのではないか。
医療改革も「先送り」された。医師の報酬が患者の薬づけによってまかなわれているのでは、という国民の疑問を放置することは、健保会計の赤字の巨額化よりもさらに重い現実といえるかもしれない。1999年は医療保険福祉審議会での薬価基準制度の見直しに関する審議にもかかわらず、これにも結局手がつかなかった。そして2000年4月からの介護保険制度の発足にあたっての介護保険料の徴収の「先送り」決定である。年金、医療、介護という厚生省の抱える課題のすべてが「先送り」となり、そして2001年の中央省庁の再編を迎えることになった。「厚生労働相」のなり手はあるのか、との素朴な疑問が登場し始めているのが実情である。就任した大臣の評価は地に落ちる以外にない、と考えられるからだ。
任期満了の場合でも総選挙まで12ヵ月を切っていた1999年10月以降になると、改革への逆流は歯止めがきかなくなる。自民党議員有志で「規制緩和を見直す会」が結成された。これではあまりにも改革に対して後退的なイメージを与え過ぎるというのであろう。「日本経済を活性化し中小企業を育てる会」と改称されたが、「見直す会」の方がことの真相をついているといえよう。そして99年の12月になると2001年4月からのペイオフの解禁が延期されることになった。これをもって、改革の旗は降ろされ、逆流が日本を支配したのでは、との仮説も登場しよう。2000年は間違いなく日本経済の分岐点である。われわれ有権者が身につけなければならない「ワザ」は明瞭に浮き彫りにされることになったのだ。
55年体制と日本型コーポラティズムの崩壊
改革という旗印が立ったのは1993年にいわゆる55年体制が崩壊したときからである。93年の総選挙で新当選した人の中には、確かに政治に新風を送り込む可能性のあるひとが多かった。非自民連立の細川政権が登場すると、為替レートは1ドル=100円に近づくという円高になった。背景には内需の不振による経常収支の黒字の急拡大があったものの、経済的規制の撤廃によって円高のメリットを国内に還元せねばならない、という細川首相の思考には正統性があった。政治にも経済にも改革の旗印が掲げられたのである。
94年1月には細川護煕首相と河野洋平自民党総裁との間で政治改革関連法案についての合意が成立した。選挙制度の改革を通じて国民の政治資金の問題への批判に応えるとともに競争的な二大政党制への道筋を明らかにしようとする意図に発していたといってよい。当時の細川内閣に対する各種の支持率調査は、空前の80%台という水準を示していた。しかし当然のことながら政治と行政の手法にはいまだ「ポスト55年体制」の骨格が登場していなかった。そして現実にはこの巨大な「虚」をとりあえずどう埋めるのか、というテーマが浮上していた。
「55年体制」とは政治の行政化と行政の政治化という政官のコングロマリット化として特徴づけられる。そしてこの持続性を保障するために自民党以外の野党勢力のうち、補完化できるところには手を伸ばす、という手法が用いられた。ここに政官のコングロマリット化を支えるものとしての日本型コーポラティズムの成立の芽があった。コーポラティズムとは代議制の機能不全を埋めるように、労使に代表される利害団体の代表者を実質上の政治的意思決定過程に加え、利害均衡をはかるなかで統治の持続性を保障しようとするものである。これによれば総選挙の争点ほど空疎なものはないということになる。
なぜならば実質上の政治的意思決定は、選挙を通じて選任されるひとに委ねられるというよりは、経済社会の内部を構成している主要な利害団体間の利害調整に委ねられている面が強かったからである。アングロ・アメリカン流の理解では「政治は妥協」なのだが、日本型のコーポラティズムでは「政治は被選出者ではない主要な圧力団体間の妥協」という色彩が強かった。総選挙にあたっての争点は、たとえ対決色が強くても、それが代替案の競争というかたちをとることはなかった。支配政党と抗議政党という組み合わせが55年体制の実質的内実であった。
しかし非自民連立政権の成立は政官のコングロマリット化と日本型コーポラティズムによる意思決定に根本的修正を迫ることになった。55年体制のもとでは、政治とは行政機関による決定を事前に知り、ある限度内でその具体的な決定内容に影響を与えることであった。また行政は主要団体間の利害調整を事前に行い、政治には儀式を取り行なってもらうという役割を割り当てていたといえよう。ウォールター・バジョットは『英国憲政論』で立憲君主制の安定成立の秘密を、権威部分と実効部分の二重基準の成立に見出した。王室は権威部分を担い、政府は実効部分を構成するというわけだ。バジョットのひそみにならうならば、自民党は政治の行政化を担い、中央官庁は政治的妥協の前さばきを行う、という分業方式が成立していたということになろう。
ところが93年に成立した非自民連立政権と野党に転落した自民党という構図は、政治における競争的システムの成立の第一歩とみるのか、それとも日本型コーポラティズムの一時的な逸脱と見るのか、という対立する見解の浮上を意味した。そして官庁ごとの意思決定を朝刊を通じて知る、という立場に立った自民党の幹部は、政治の行政化を担ってきた自らの立場の全否定としてうけとめたのである。
他方官庁の幹部は、代替的な政策体系の提示もないまま成立した非自民連立政権下において、どのような政策メニューを、どのようなかたちで提示すればよいのかに戸惑うことになる。永田町と霞ヶ関による巨大なコングロマリットが崩壊して、巨大な「虚」の空間が生まれた。ここを埋める新たな手法こそが政治改革の具体的な内容であったはずだが、実際には選挙制度改革だけに絞り込まれてしまった。このため官庁の「実務」は、裏面での利害調整の枠組みを工夫することもできないため、むき出しで政権中枢への働きかけというかたちをとらざるをえなくなった。ここからたとえば「腰だめの消費税率の引き上げ幅」という細川首相の記者発表となる。
「虚」の埋め方についての政治的試行錯誤は、本来は日本の代議制の歴史を一つひとつつくり上げることに寄与したはずである。ところが不幸なことに、非自民連立政権当時の官庁の幹部に対して具体的な「政治責任」を問う、という流れができてしまった。代議制の下における行政官庁の幹部は、政権を奪取した政党の提示した公約にかかわってその選択肢を明確化するという責任を負っているはずである。ところが55年体制のもとにおける行政の政治化という背景が長期間持続したため、公務員が負う本来の行政責任に戻ることが著しく困難化してしまっていたといえよう。そしてたまたま大蔵省幹部は、94年の自民党の復権後には自民党から「狙撃」の対象となった。このことはその後の日本型コーポラティズムを基礎から揺るがす一因になったといえるだろう。行政の政治化を具体的に担う危険について、官庁の幹部候補生は膚身で知ることになったからだ。ここから日本の政治は「ポスト・コーポラティズム」という課題に正面から取り組むことを運命づけられたといえよう。
住専処理と「制約下での合理性」発揮 ところが改革を持続させるような新しい政治の争点形成作業は容易には進まなかった。むしろつまずきの石が相次ぐなかで改革の進路には振れがついて回ることになった。その最大のものはシステミック・リスクの顕在化なのだが、ここにまで立ち至った要因は住宅金融専門会社(住専)の破綻処理の失敗であった。
私は問題処理には費用を要し、納税者は負担を覚悟せねばならないが、問題はそれほど複雑ではないし、米国等の事例もあることから、政治的な詰めは早急にできると考えた。こうした見解の一端を95年8月6日付の朝日新聞朝刊に『「経済敗戦」の処理』と題して寄稿した。その出だしは「時間が残されていたことはまだしも幸いだった」である。そして「一人ひとりの国民にとって銀行は選べるが、金融システムの安定性は選ぶことができない」のだから2000年までの時限立法によって金融システム不安を解消するための臨時の行政委員会を作るべきだとして以下の6点を提案した。
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預金を取り扱うすべての金融機関の業務を監督、監視する委員会をつくり、銀行、證券、不動産、司法などの専門家を委員として任命する。
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委員会は債務超過のおそれのある金融機関に対して業務停止命令を出すことができる。
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委員会のもとに破綻処理機関をつくり、預金の払い出しに始まる破綻先整理に全権限を行使できるようにする。整理にともなう費用を明確にするために特別勘定をつくり、必要に応じて特例国債の発行を政府に依頼する権限をもつ。
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同機関は国民の負担を軽減するため、保有する未収債権の処分を最も効率的に行う権限をもつ。債権を証券化して分売する手法は優先して認める。
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海外の事例からも明らかなように、破綻した金融機関の過半の責任者には、法令違反や背任の疑いがあるので、委員会は解明した経営資料を司法当局に提出する義務を負う。
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破綻した金融機関の再生に当たっては効率化や業務の特定化という条件を課すことが委員会の責任になる。
そして次のように付言した。「協同組織の金融機関については監督の実態が心もとない事例も少なくない。このため時限立法によってとりあえず委員会が金融システムの不安を解消する権限を保有せねばならない。農水省や都道府県が金融機関の監視にどう取り組むのか、などを今から論じるようでは遅すぎる。」
ところが95年末の住専処理の枠組みでは、ことは単に住専の設立にあたった銀行(いわゆる母体行)と住専への融資残高の四割以上も占める信用農業協同組合連合会(信連)などの農林系金融機関の間で、どのような負担区分を行うのか、だけに争点が絞り込まれた。金融システムの安定性と、国民が受け止めざるを得ない負担増の問題は回避されようとしたのだ。なぜここに落ち込んだのか。各当事者にとっての優先順位は次のようなものであった。
自民党:できるだけ母体行に負担を負わせ、農協保護のための財政支出が不可避となっても、「農協保護のため」という目的は消し去り、「不良債権処理のため」という漠然とした名目とする。「公的資金の投入は預金者保護のためであって、破綻した金融機関の救済のためではない」という原則の提示は青くさすぎる。それでは協同組織金融機関がもたない。集票基盤の崩壊につなげてはならない。 母体行:たとえ預金者保護のための公的資金の投入といっても、銀行への指弾は強まり、経営の自主性は損なわれるであろう。住専処理のための追加負担は特殊な枠組みでの特殊な損失負担として、株主代表訴訟の対象となることがない、という保証があればやむをえない。 大蔵省:住専の破綻が裁判所に持ち込まれれば、住専処理の先送りで損失額が拡大していった経緯とともに、住専の存続を目的とした基準なき行政介入の実態が表面化してまずい。住専の損失額のうち、信連の回収にあてられる、母体行に最後までおわせきれない6850億円を一般歳出で尻拭いするのは、やむをえない。十分に値切ったともいえよう。
住専処理は55年体制と日本型コーポラティズムのもとでの利害調整の応用問題に堕ちてしまった。信連などの系統金融機関は自民党をエージェントとしたため、背後に退いた。そして三当事者は「制約下での合理性」の発揮で、この場の幕引きをはかった。これが結局のところ、金融システム不安への導火線となったのだ。私が「時間が残されていた」と書いたのは結果としては正しくなかった。『「経済敗戦」の処理』は、明瞭に政策上の争点として論じられるべきだった。そして「ポスト経済敗戦」の戦略を争点とした総選挙が行なわれるべきだったのだ。
選択の積み重ねから見た「総合的合理性」基準
当事者達は選択する理由があって特定の姿勢をとる。したがってこれをそもそも非合理的だ、と論難しても始まらないところがある。このように短期的な了見で選択肢に臨んだ結果を「制約下での合理性」と呼ぶならば、これを超える視点を当事者たち自覚化させるワザをわれわれは身につけねばならない。そのためにまず必要なのは、「制約下での合理性」の発揮によって落ち込んだ溝の深さを測る尺度をわれわれがもたねばならないという認識である。
住専処理のために投入された6850億円を私は「685の呪い」と呼ぶことにしている。国会で住専処理法が成立したのは96年6月18日である。国会は半年間も実質空転を続けたのだ。「制約下での合理性」はただ単に高くついただけではなかった。そして国民にとって選択のきかないはずの金融システムの安定性についての政策は一切稼動しなくなってしまったそして。国民の次の選択を縛りつけることになったのだ。
自民党:96年6月に成立した金融関連三法によって、銀行は貸出債権ごとに自己査定を行うことになったのだから、不良債権の問題は解決するものとみなそう。「銀行救済」とでも相手陣営から指摘されるような立法は総選挙を控えてとても無理だ。「685の呪い」は解けていない。毀損した銀行の自己資本という話も誰からも正確に説明を受けたことはない。国会に特別委員会設置を、などと提案しようものなら、それ自体がシステミック・リスクの顕在化の引き金となる可能性がある。
大蔵省:「685」への批判の厳しさを考えれば、少なくとも数兆円に及ぶと考えられる銀行の自己資本充実のための公的資金の枠組みを提案することは難しい。しかも銀行の毀損した自己資本の放置の責任ということになれば、大蔵省からの金融分離にさらに口実を与えることになる可能性がある。
大手銀行:公的資金の注入の必要性をいいだせば、経営陣は総退陣を迫られ、民間銀行の自主性は根底から損なわれる恐れがある。ジャパン・プレミアム(外貨調達にあたって邦銀が支払う割り増し金利)も顕在化しているが、ここは我慢して景気回復による貸出資産の質の改善を待つしかない。
1996年10月20日に小選挙区比例代表並立制に基づく初の総選挙が行なわれたが金融システム不安の問題も「ポスト経済敗戦」の問題も争点にはならなかった。自社さの連立政権への評価が争点だったとされたのだ。「時間が残されていた」としても、この時点では完全に空費されていたといわねばなるまい。橋本内閣への支持が総選挙でどうやら確認されるとその直後に「金融ビッグバン」が首相から打ち出された。しかし競争を通じて退出を迫られることになるであろう金融機関の問題についての枠組みは明示的には用意されていなかった。この段階でも、簡単な飛球でも安打にしてしまうほど、守備体系は整っていなかった。手を出せばたたかれる、という心理状況からの脱却はできないでいたのだ。「制約下での合理性」という選択肢に依存したことの咎めは続いていたのだ。全体像に関する認識をつくりあげ、それを選挙における争点化を通じて国民的に確認するという作業はまったく稼動しなかったといえよう。
われわれ有権者はスピードを要求される意思決定の時代にあって、国政選挙の意味づけについて再考を迫られている、と考えるべきではないか。まず与党に対しては、政権を委ねられた時期における意思決定とその結果とについて自己評価を迫るべきである。この点についてはいつの時代についても妥当することであろう。個々の有権者は各々の政権評価に基づいて採点を下せばよい。しかしこの時点において与党の過去の政治責任はいったん解除してやるのだ、という態度を明瞭にすべきだと思う。こうした思考上の手続きによって、有権者は自らをも解き放つ機縁を手にする事ができるのかもしれないのだ。 これは思考上において経営モデルを想定していることを意味する。株主から経営を委託された経営者は期間利益とその間の財務上の変動を中心として株主に対して報告義務をもつ。同様に選挙にあたっては有権者からその政治権限を委ねられた政治家は、その間の実績について説明する責任を負っている。ここでは経営モデルと政治モデルは並列の関係にある。経営モデルにおいては説明責任とは責任解除と裏腹の関係にある。委託者に対して受託者としての責任を全うした、との報告が受け入れられるということはその間の会社財務の変動についての責任は解除されたことになる。アカウンタビリティ(説明責任)とアカウント(会計)とが同根であることに明らかなように、説明を尽くすことは責任が解除されることでもある。 政治モデルにおいても同様に考えるべきであろう。委ねられた権限を行使して、委ねられた期限のなかで意思決定を積み重ねるというのが政治家の仕事の内容である。目論見通りのものもあれば、手違いで失敗の憂き目をみることもあろう。その総体を自己評価として提示することが求められていると解すべきであろう。経営モデルについていえば、経営者としての違法性がない限り、たとえ株主に損失を与えたとしても報告をもって責任は解除される。次の期に選任されるかどうかは、株主の判断による。政治家も同様で、たとえ失政と断定される判断ミスがあったとしても、神ならぬ身である限り報告の段階で有権者との関係はいったん解除されることになるはずだ。われわれ有権者は一度このことを肝に銘ずべきだと思う。政治家の報告と自己評価の提示をもっていったん政治家から責任を解除してやるべきである。そして再任するかどうかについては、いったん解除された責任を前提として、将来に学習効果が発揮されると判断できるかどうかが決め手となろう。この解除によって有権者にも新しい視野が広がる可能性がある、という意味において、個々の有権者も解放される機縁に結びつくことが考えられるのだ。 こうした態度に対してはあまりにも脱イデオロギー的だ、との見方もあろう。しかし実用主義という基準に磨きをかけるという視点に立つならば、繰り返される選択をめぐる「総合的な合理性」はいかにすれば獲得できるのか、という地点に至らねばならないだろう。
「虚」を埋める政策提示能力とコミュニケーション能力
1997年11月、金融機関の相次ぐ破綻の中でシステミック・リスクが一挙に顕在化した。公的資金の注入問題はやっと政治の舞台にあがることになったが、ちょうど戦後50年を経た夏に私が考えたような権限を持つ委員会は登場しなかった。98年2月に金融安定化二法が成立し、公的資金の注入の枠組みだけがわずかに生まれたにすぎない。98年10月に、やっと金融再生法と金融健全化法とが成立し、金融再生委員会の設置になった。誰もグローブを出さないところに球が落ち、金融システム不安に火がつき、経済の異常収縮が起きて一年後に、やっと委員会ができたのだ。「時間が残されていたことはまだしも幸いだった」という私の認定は裏切られ続けたことになる。
誤認の原因を絞り込めば、55年体制と日本型コーポラティズムの崩壊によって生まれた「虚」を埋める政治手法の開発こそが政治改革の内容だったにもかかわらず、この領域の充実にわれわれが力量を発揮できなかったからである。力量不足は三つに分けて考えられる。
| (1) |
問題の正確な把握と適切な処方箋づくり |
| (2) |
採用された政策によって生まれる具体的な利益の明瞭な表現 |
| (3) |
政策選択を政治過程にあげるコミュニケーションについての能力 |
経済的規制の撤廃やペイオフの解禁に対する逆流が起きた2000年の時点でこれを具体的に検討してみよう。
(1)についてみる。競争を通じた新しい取り組みを結果につなげた企業群が、どのように利便の向上や消費者満足を生み出したのか、という全体の考察を行うならば、競争秩序の維持を担う恒常的な仕組みの重要性に気付くことになる。競争政策の担い手としての公正取引委員会の役割に新たな光が当てられて然るべきであった。公正取引委員会は、日本の競争にかかわる状況についての尺度づくりとその開示を通じて、何が競争を妨げているのかについて国民の前にその構図を提示する役割を明確に果たすべきである。公取の委員長には開かれた委員会の運営を通じて、国民とのコミュニケーションを的確にはかることができること、という資格についての条件づけが不可欠であろう。競争を通じて生まれる製品やサービスの質の改善が国民の日常的な話題のひとつになるような状況を生み出すことが、(1)については欠かせない。
(2)について言えば、改革に対する逆流に身を任すことになった政治家や政党は、既存の業界や事業者の集まりしか目にみえないという状況に陥っているものと考えられる。選挙活動には支援と票とが欠かせない。無党派層や支持政党なしと答える層は、政治家にとってはとりあえず計算に入ってこないため、既存の組織票ばかりに目がいくという面がある。しかし改革を通じて具体的な利益が生まれることが了解されるならば、その背後にある便益の享受者が想定されよう。問題はこれをどう可視化し、政策的な対話を深めるなかで、政策形成にあたっての一方の柱に構成していくか、である。
従来の手法では透浸力が弱かったり、手間や費用がかかり過ぎるという問題があった。新しいタイプの有権者がどのような対象に対して、いかなるかたちで共感を寄せるのかは、激しい文化変容の中で必ずしも明確ではなかった。
しかしインターネット時代を迎えた今日では、改革の試みに対してどのような反応形態があるのか、またそうした反応を寄せる人の属性がいかなるものかについて、考察すべき材料は一挙に増えた。試行の繰り返しのなかで問題への新たな接近方法を思いつく、というケースも増えるだろう。しかしだからといってインターネットだけで(3)のコミュニケーション能力の高まりにつなげられるわけではないだろう。
無作為抽出法によるインタビューなどの従来の手法を通じて、意見の分布の形状について見当をつけるといった手法も含め、新旧の手法の往復的活用が不可欠になるだろう。こうした手法の組み合わせを駆使するならば、政策の選択肢を政治過程にあげるという意味でのコミュニケーション能力の向上を期待することができるのではないか。
2000年の総選挙はインターネット時代に突入して初めての選挙である。日本経済の分岐点であることを自覚するならば、従来は力量不足が明らかであった三点について一つひとつ的確な対応を続けなければならないといえよう。公共的意思決定過程の革新がなければ、従来の意思決定システムの崩壊後の巨大な「虚」を、無定見や「制約下の合理性」が埋めてしまう可能性さえあるのだ。
総選挙に向けての五つの作業
55年体制が崩壊したとき、新しい安定した政治構造が生まれるまでに三度ほどの総選挙を経る必要がある、との説があった。平均的にはおよそ三年おきに総選挙があるため、十年という歳月が想定されていたのであろう。しかし改革の実施を争点とした選挙が行われない限り、「虚」を埋めるような政治改革が実現しないことはもはや明らかだ。改革を争点化することによってのみ、国民の意向の集約化や経済活性化の枠組みが整うのだ。総選挙を間近に控えて緊急度を増しているのは次の五つの作業である。
| (1) |
改革の「揺らぎ」を逆手にとり、21世紀の日本経済の「構図」をみせる手番への組み替えをはかる。 |
| (2) |
改革という手番を推進する勢力の属性を明らかにする。 |
| (3) |
選択肢の違いによりもたらされる利得について、その値の確定への力を行う。 |
| (4) |
「制約下での合理性」の長期的にみた不安定性を明らかにする。 |
| (5) |
政治的協調と政治的妥協の意味を引き出す。 |
政治改革とは結局のところ国民にとっての意思決定過程を明らかにし、総合的な合理性をできるだけ早く獲得できるように工夫することなのだ。日本経済の分岐点にあたり、このことの意味は一層重い。 (意見交換の土俵の一つとして mail@21ppi.org) 以 上 |