2007 年の年頭になりますが、今年受け取った年賀状の中のいくつかに、改革の継続なのか、それとも停滞の始まりなのか、 2007 年は分岐点になるだろうという指摘がありました。私も概ねそうしたある種の時代感覚を持っています。われわれはどうやら分岐点に差しかかりつつあるのかもしれない、という感じです。このことを政治の仕組み、特に永田町と霞ヶ関との関係、あるいは官邸主導といわれる政治手法というものを取り上げて考えてみたいと思います。
二つの論点があると思います。一つは、安倍内閣にとって小泉時代の手法が異常値であったのか、あるいはこれを継承するのかというテーマが出てきているということです。もう一点は、もっと長い時間の単位になるかと思いますが、日本における政策的意思決定過程をどのように構築するのかという問題です。小泉さんの時代に官邸主導が言われるようになりました。そしてまたこのことは政策の優先順位について明瞭な濃淡がつく時代だったというふうに言えると思います。このことは自民党内に大きな摩擦を引き起こしました。小泉時代は野党と戦っているというよりも、自民党内の守旧派というか抵抗勢力というのか、その時代その時代、小泉さん自身の呼び方も変わったと思いますが、いずれにしろ党内こそ変えなければいけないという考え方、あるいはそれを巡って利害関心というものが結集しているという考え方です。
自由民主党は第二次世界大戦後の基本的な執政党でした。ずっと政権をとり続けたと言ってよいでしょう。例外的な時期は若干ありますけれども、戦後ほぼ 60 年の長きにわたって保守政治というものが続いてきました。この時代には第二次世界大戦後の特徴がふんだんに入り込んでいます。日本列島の各地における利害をどのように拾い上げるのか、そして日本における亀裂を避けるためにどのような修復策がとり得るのか。保守政党とはいうものの、実際は補完という役割を中心にして、どのようにして包み込んで、一体性を保持できるのかというテーマが続いたように思います。
これは冷戦時代が基調であったということと平仄を一にしている面があります。冷戦時代にあってわが国の内部にもいわゆる左派勢力がありましたし、思想としての社会主義も根強く基盤を持っていたと言ってよいでしょう。それだけ日本の 20 世紀の歩みが辛かったというわけですが、これを受けて 20 世紀の後半に入りましても、国内における利害の亀裂というものをどのようにして包み込むことができるのか、そのことを通じて、東西冷戦ということですから、東側の勢力に対して弱みを見せないで済ますことができるのか、こういうテーマがありました。またこのこと自体は第二次世界大戦直後に占領軍の下において始められました諸改革もまた大きく言えば日本社会の亀裂を修復するような、そうした作用をもっていたと思います。
変化が起きたのは 1990 年代に入って東西冷戦が西側の勝利に帰した後でした。かつては共産圏あるいは社会主義圏と言われたところに市場メカニズムを前提とした生産体制が入り込んだことです。またこれを見ながら中国とインドが、改革と開放と言ってよいでしょう、市場主義の流れにスペキュレイトする、投機するようにしてこれに参画したということになります。従いまして、 1990 年代には東ヨーロッパからロシアまで、そしてインドから中国まで、かつて市場経済とは一線を画してきたあるいは市場経済には乗れないと思われていたところが、市場経済システムに乗り合わせたことになります。
このことによってわが国の国際社会との対応関係は基本的に変わらざるを得なくなりました。自らの持ちえている利点をどのようにして選び出して、その周りにもう一度産業のあり方、企業のあり方を再統一する、中心的な結節点というものの周りにどのように結びつけていくのか、こういう再編作業が行われるようになりました。これをリストラクチャリングという言い方もあります。企業再編成という言い方もありますし、あるいは選択と集中を通じての経営資源の絞込みという言い方もありますが、いずれにしろ 1990 年代において新しい情勢下においてこうした手法がとられることになります。
このことは当然のことながら日本列島全体におけるマクロ政策のあり様についての根底的な批判の視点を提供せざるを得ませんでした。従来の仕組みはあまりにも効率性を無視したものではなかったのか。こうした非効率な資源配分が許されたのは、東西冷戦の下において軍事費負担が低く、かつ他の諸国が何らかの形において囚われていた時代に許されたためでした。先進国は軍縮の配当を得、そして途上国あるいは社会主義国については市場メカニズムというものを中心にもう一度建設の総路線というものを引き直すという時代に入ったときに、わが国だけでこうした修復作業、国内の価値をそのままに修復作業を続けるということができるのかどうかということになったわけです。そしてわが国において人口減少時代がやってくるということもまた冷厳な事実としてやってまいりました。このときに実際には自民党政治が何をしてきたのかということになりますと、結果として債務の累積を黙認してきただけではないかということになるわけです。もしこのまま放置したということになりますと、 21 世紀日本社会の持続性が根底から覆されるということにならざるを得ない。そうした時代に小泉時代が始まったわけです。
小泉時代における政策の濃淡からいきますと、改革なければ経済成長もままならないという言い方もありましたし、官が行ってきた仕事をできるだけ民に移譲する、民に移譲するということは、われわれ国民は対価を支払う形によってサービスを入手する、政府の手によって無料のものが手に入る、政府の保証によって何か特定の経済活動だけが保護を受けるということはない、ということになります。政府の支出も削りこむ。政府の保証という意味での政府の傘もすぼめる。そうした路線の中において初めて借金の増大にストップをかけ、そして次の世代に過大な借金を残さない仕組みをつくり上げる。こういう時代背景の中で小泉政治というものが登場したと思われます。
これは官邸主導という言葉にも代表されますように、政策の濃淡について責任を持って内閣が決める。内閣総理大臣が決め国政選挙において国民の審判を受けた上でこの政策を実行する。こういう手法ができあがってきたわけです。それはただ単に小泉という政治家が多少異質なといいましょうか、変人という言い方もあったわけですが、そういうパーソナリティーの問題なのかどうか。時代背景というものがそうした政策の濃淡を必要とし、かつ従来は政府がやっていた仕事も政府の仕事ではないようにするという、官から民へ、あるいは中央から地方へというこうした流れを生んだのだというテーマ性があったのです。
安倍内閣はまさにここにある種の結論を出さざるを得ないのだろうと思います。ある種小泉時代は異常値だったのだという言い方をするのか、それとも小泉時代に行われた政策、手法、そして理念というものは、日本社会が長い単位において選択を不可避として、これをとらざるを得ない、そういう路線と見るかどうかということです。これまで安倍首相はこの点についてそれほど明確な意思表示をしてこなかったと思います。すなわち、小泉時代が異常値なのかどうかということについて、自らの意見を正面から述べるという、そういう局面ではなかったようです。
いろいろな理由が考えられますが、総裁選という自民党の中におけるいうならばリーダー選びという中において、できるだけ多くの票を得たいということになりますと、自民党を構成している諸勢力との間にある種の目配りも要るということになります。伝統的な自民党政治というものとのある種の連続性というものは自民党総裁として選び取られるという立場に立ってみますと、これはなかなか無視できないということだったと思います。そういう意味において、選挙直後に明白に小泉時代を継承するのかどうかということを述べる機会はなかったというのが私の理解です。いずれにしろ、この小泉時代にあった政策に濃淡をつけて臨むという手法を果たしてとれるのかどうかということになります。
既に申し上げましたように、日本社会が大きな時代の転換の中でこれ以外の手法というのはまず簡単には考えられない。とりあえず多くの有権者の理解を得られる姿ということになりますと、官から民へ、中央から地方へという形で、政府活動の再定義を行いながら持続的な社会をつくり上げる。そのためには政策に濃淡をつけていくという手法をとらざるを得ないのではないかと思っています。今年は 7 月に参議院選挙が予定されていますので、それまでの間にはそうした政策の濃淡ないし官邸のリーダーシップのあり方ということについても、相当明瞭なものが出てくるのではないかと思っています。
もう一つのポイントがあります。それは改革を進める上で、永田町と霞ヶ関との関係をどのように規律化するのかという問題があります。霞ヶ関について言えば、他の職場、たとえば四年制大学を卒業して大企業に勤務した人が、組織に対してのある種親和性をもっているように、役所に勤務した四大卒の人々にとってみますと大変な親和性のあるいわば「職場」という面があります。ひとつの役所毎にかつては 20 人以上、今は統合を遂げた役所もありますので大卒で 40 人以上という新規採用を行っている。そしてその人たちが 50 代の半ばまで勤務し、その後もおそらく 10 年あるいは 15 年という年をある種そうしたリクルートメントにかかわる一つの流れの中にいる。自らの世界でありかつ職場であり、人間関係の集約した所だというのが、霞ヶ関のもっている生理とも言うべきものです。
しかしそうは言っても、霞ヶ関のあり様というのはビューロクラシーのもっている原点を抜きにしては考えられません。ビューロクラシーとは民主主義において政治家を支え、具体的には内閣総理大臣あるいは自分の役所の大臣を支えながら、匿名性の中においてあるべき政策論を練り上げ、それを内閣のポイントとして数えてもらう中で、そうした一人ひとりの貢献が位置づけられるという仕組みです。一人ひとりをとってみると、俺が俺がというよりは無名性といいましょうか、あるいはそうした状況に甘んずるということが前提になっていた社会とも言えます。
もちろんこうした民主主義国における官僚制というのは日本的なパターンだけが唯一ではありません。アメリカのように大統領が変わるとワシントン D.C. から 3000 人の人が出て行って、 3000 人の人が入り込んでくるという社会もあります。ここでは回転ドアといわれるように、シンクタンクとか民間企業とかあるいは大学とかいろいろありますが、そういう所と一連のつながりを持ちながらいろいろな職種、一見まったく違うところに実は共通のリクルートメントのベースがあるということになります。 3000 人が調達されるということは、その背景におそらく三倍から四倍の人たちがいると考えてよいでしょう。ということは、 1 万人を超える人たちが次の政権、大統領が共和党になるのか民主党になるのかというのもあるのですが、いずれにしろどちらかと決まればおそらく数千人の人たちがワシントンに移住するといいましょうか、そこに職場を得ることを前提として、日ごろ政府以外の所に職場を持っているという社会であります。
こうした広い範囲での政策コミットメントのベースをわが国では持っていませんでしたから、霞ヶ関という所において純粋培養的に一つの役所の中において 25 年とか 30 年とか、そういう期間を得るのは当然だとして、その期間の中において仕事をするのはあたりまえであり、辞めた後もその政策官庁のある種影響力の下において仕事を続けるということであったわけです。こうした時代においては確かにそれなりの役割分担というものは永田町と霞ヶ関にあったように思います。
政府税制調査会(政府税調)というものに突然関心が寄せられることになりました。政府税調の 55 年体制における役割は何であったのかを考えてみます。政治的な思惑から離れたところで学者を中心に政策論議としてあるべき税制の骨格をつくり上げる。これを政府に対して提言し、内閣総理大臣はそれを受け取った後、今度は党の税調に諮るという手続きになります。党の税調はもちろん選挙を控えた政党のリーダーという人たちによってできているわけですから、筋論としての税制の体系に対して、現実的なことを考えればこのような理論値だけで税制をつくるわけにはいかないというのでこれに修正を加える。ただし修正を加えつつも理論値といいましょうか、整合的な政策体系というものは政府税調でつくられているのでそれとの対比において政治的な修正を加え、いわば色をつけるという作業としてあったと思います。そういう意味では、政府税調にも存在理由が明確にあることは党税調あるいは自民党組織もこれを認めていたということになります。
しかしこうした阿吽の呼吸でもって行われた永田町と霞ヶ関の仕切りというものが、小泉時代になって政策の濃淡を首相自身がつけるという時代になりますと変わってまいります。今回の政府税調にかかわるいろいろな思惑の違いというものの背景をたどってみますと、かつての政府税調と党税調の関係が完全に変わってしまい、そうしたものとしてもはや考えられない。むしろ官邸が明瞭な濃淡をつけて臨み、そして有権者に対して国政選挙を通じてその成否を問うという形になった以上、政府税調の役割も変わらざるを得なくなったということであります。
これは永田町と霞ヶ関との関係が基本的に変化したと私には思えます。ただし霞ヶ関をいろいろ取材してみますと、安倍時代になってもう一度、いわば衆知を集めるような形で役所毎の行政の知恵というものが内閣に結集できるのではないか、あるいはそうした手法を安倍内閣はとってくれるのではないかという期待が、安倍内閣の成立以降あったことも確かです。小泉時代には自分たちの知恵は必ずしも問われなかった、しかし今回安倍政権になった以上自分たちの知恵を十分吸収してくれる。そういう内閣ではないだろうか、こういう考え方が霞ヶ関の各部署にあったことは確実だと私は思います。
問題はこの 2007 年の政策提示そして政策の実行過程において、永田町と霞ヶ関との間にどのような仕切り線が設けられるのかということです。日本における政策的意思決定過程は極めて興味深いことなのですが、この分野について明瞭な研究所というものは今日まで存在してこなかったように思います。少なくとも役所の下に誰が昇進するのか、あるいは信賞必罰とはいうもののその基準は誰がつくるのか、そのことについてレビューはどこでなされているのか。そういう基準とでも言うべきものが明瞭に議論された気配はありませんし、またそのことについて触れた研究論文もほとんどないというのが現状のようであります。そういう意味からいきますと、役所自体がなかなか外部の者にはわかりにくい、そこにおいてどのような政策がつくり上げられ、それがどのような形で内閣として採用されるのかということも非常にわかりにくいものであったと思います。
国民にとって民主主義政治の下においては政策決定過程というのは自己統治の具体的な表れです。自己統治の実践例として政策形成過程があり、政策の実施があるわけですが、この大きな命題の下において永田町と霞ヶ関がどのようにそれぞれ役割を果すのか、依然としてテキストブックがないのが現状だろうと思います。小泉さんの五年半の間にこのテキストブックのあり様についてかなり明瞭な修正というものがなされたように思います。しかし安倍内閣において、この永田町と霞ヶ関、官邸と霞ヶ関の個々の役所との関係がどういう関係に入るのか、年末年始のいくつかの新聞論調を見ていますと、もうひとつ十分提示しきれていないのではないかと思います。
しかし今年は参議院選挙もありますし、安倍内閣のいわゆる人気の低下という背景がありまして、かなり自らの立ち位置というものを絞り込まざるを得ないところにきているように思いますので、具体的にいくつかの試みがなされるのではないかと思います。これを通じて第一の小泉継承かどうかという論点と、永田町と霞ヶ関に新しいものが生み出されるのかどうかという第二点、この第一点と第二点にかかわっていくつかの検証基準というものが、今年は具体的につくり上げられていくのではないか。それを通じてわが国における改革、少子高齢化を迎えたわが社会の持続性を目標とした改革がどのような手順によってなされるかが浮かび上がってくるのではないかと思います。
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