2005/9/16 自民大勝と既得利権 音声(RealPlayer再生)

 今日は、9月11日の総選挙によって連立与党が議席占有率において2/3を超えるという大勝になった、このことの意味を考えてみたいと思っています。

 自民党だけで新人議員が83人登場することになります。これまでは新人が登場しますと、各派閥が議員宿舎とか議員会館の配分について、新しく入ってきた人は何もわかりませんから、派閥の事務所がいろいろ按配するといいますか工夫したわけであります。例えば、議員会館ですと同じ派閥の人が隣近所にいたほうが何かと都合が良い。秘書さんも共同というわけにはいきませんが、何か過不足が起きたときにはお互い助け合うこともできるのではないか、というようなことがあったようであります。いずれにしろ空いたところに誰が入るのかということを巡っては、派閥間でそれぞれ調整が行われていたようです。議員宿舎のほうは、もう少し住みやすいとか近いとか遠いとかいうことがありますから、なんとなくわれわれのアパート探しを考えてみましても、議員宿舎の配分というのも何か派閥の役割があるのかな、という感じはいたします。

 ところが今回はそういうことがないわけでして、自由民主党という党が、こうした全体の新人の人たちの身の回りといいましょうか、文化、政治家文化そのものなのですが、それを変えたり教えたりするということになるわけで、多分これだけ大勢の人が新人議員としてやって参りますと、自民党の中での中堅幹部あるいはポスト小泉のときにリーダーになりそうな人たちにとってみても、裾野といいますか最初に入ってきた人たちのこの新人ぶりといいましょうか、ずいぶんこれまでとは違うなという感じになるように思います。そういう意味では今後どういう人がポスト小泉で選ばれるのかを考えてみましても、新しく入ってきた人たちも票数はそれぞれ1票ずつ持っていますから、これが一体どういう効果を及ぼすのかは興味深い話だと私は思っています。

 解明しなければいけないことが幾つかあります。最初に、なぜこんなに大勝したのか。自民党だけで296の議席を取るということはなかなか容易には考えられなかったことですけれども、これについてまず述べてみたいと思います。私は2つ要因があったと思っています。一つは、政策・政党・首相選び、要するに政策・政党・首相選びが一直線に並んで、これがこの基準になったということです。96年の選挙から小選挙区が入りました。小選挙区選挙においては結局どちらの党首のほうが首相に相応しいのかということになるのだと政治学の教科書には書いてあったわけです。しかしそうは言われても有権者のほうにも戸惑いがありますし、一人ひとり小選挙区で出ている候補にとりましても、政策・政党・首相選びが一直線というのはなかなか主張しにくくて、それでは候補として立っている俺の立場がないではないかということになります。やはり中選挙区制度を引っぱってきていますので、なかなかそこのところはストンと候補者にも入らなかったし、有権者にも入らなかったという面があると思います。それが証拠に2000年、2003年の選挙において、誰に入れようかなというときには、投票所の前にあります候補者が一斉に張ってあるポスターを見て、顔をもう一度見比べて、やはりこの人にしようかと、人が山成すとは言いませんが、ずいぶん立ち止まって、候補者をのぞきこんでいたというのが実態であります。

 しかし今回はこの政策・政党・首相選びが一直線に繋がりましたので、この一気通貫ですともうポスターの張ってある掲示板を見る理由はない。もう決めている、投票所へ行けば党名を見てその候補の名前を書くということですから、たとえ落下傘候補といわれる地元に関係のない人でも、今回はあっという間に、選挙期間が短かったにもかかわらず相当数の票が取れた。それは政策・政党・首相選びが一直線に繋がったからであります。これは今回が初めてだった。逆に言えば、争点形成能力において小泉さんの力量は非常に高かったということを意味していると思います。

 もう一つ私は大勝になった理由があると思います。それは「死に票」と言われるものです。小選挙区においては、少しでも多数をとったほうに議席が与えられ他方は意味がないというか、これは「死に票」になってしまいますから、「死に票」問題というのはもともとあったわけです。このことがあまりこれまで議論されなかったのは、一つには比例代表並立制という形で、小選挙区で負けても惜敗率等で拾い上げられるという経緯があったこともあるのですが、もう一つ実は大きな要因があったと思います。それは、大都市圏においては民主党がどちらかといえば票を取る選挙がここのところ多くなりまして、自民党候補の票が死に票になった。しかし、非大都市圏、農山漁村は伝統的に自民党が強いということですから、そういう所では野党の小選挙区候補が多少票を取りましてもそれは死に票になる。大都市圏の死に票とそれから非大都市圏の死に票が打ち消し合っていたという面がありまして、小選挙区比例代表並立制を入れたからといって片方に重心が移ることはない。地すべり的な勝利が片方に勝利の女神として現れることはないという情勢を生んでいたわけです。

 今回は一斉に死に票が出たと言ってよいと思います。大都市圏、とりわけ首都圏においては民主党の小選挙区候補が取った票が死に票になりましたし、非大都市圏においてもやはり民主党の票が死に票になったということになります。そういう意味では、選挙の結果だけではありますが、日本社会に大都市圏と非大都市圏、大雑把に言って二つの地域があって、それぞれが違った傾向の選好度といいましょうかある種傾きがあって、その二つの異質な社会における存在感があるがゆえに、結果としては均衡のとれたものだったのが、必ずしも異質ではない反応を双方ともに示した。要するに異質性が消えたということがこの大勝に繋がった理由と言わざるを得ません。

 では、問題はこうした大勝が起きた中で、既得利権の構図というものがどういうふうに理解されたのかというテーマがあると思います。郵政民営化の場合に、郵政事業とは一体何かというときに、一つは全国特定郵便局長会(全特)と呼ばれる任意団体、これは一体何だというのが段々知識として有権者に広がりました。それから労働組合の人たちがどういう行動に出たかということも段々わかってきました。有権者は、どうやら郵政事業には既得権が付きまとっていたということがわかってきたわけです。そうすると、郵政民営化反対を述べている主張は、こうした既得権を隠すような、いわばいちじくの葉のようなものではないかというふうに思った人が結構多かったことを意味すると思います。もちろん、そのいちじくの葉を自ら言うわけはありません。この人たちが専ら述べていた主張は、社会的弱者をどうするのだとか、とりわけ金融について言うならば、金融弱者の立場を考えないのかと、こういう議論でありました。しかし全国に配置された郵便局の中で、一部に廃局がたとえ出るとしても、それは社会的弱者あるいは金融弱者と言われる人たちを損うことなのかどうか、というのがまずあったと思います。

 郵便は日本全国どこでも届けるということになっていますので、郵便局の廃局というのは郵便局が何か地域社会にとって極めて重要な意味を持っているのかどうか、ということになります。地域社会の問題は確かに大変な問題になってきておりまして、人口減少がはっきりしてまいりますし、それが非常に早くから起きている所もあります。そういう意味では、非常に伝統的な地域社会が脆弱性を帯びてきたことは間違いありません。肉屋も魚屋もなくなってしまった、という所があることは事実です。ただそのときに、肉屋魚屋はないけれども郵便局があるからいいではないか、という議論は社会的にはあまり通らない議論だろうと私は思います。郵便局が地域社会の中で何か心情的な核心の部分を形成する、というのはやはり無理があろうと思います。

 郵便局が廃局になると金融弱者が生まれる、という主張もありました。お金がおろせないではないか、年金の受取をどうするのだという話であります。しかしもし肉屋魚屋がなくなっても、われわれは生活しなければなりませんので、どこかに買い物に行く、あるいは誰かにそれを委ねるということになるわけでありますが、そのときにやはり肉屋魚屋がある所まで出かけないとお金を払って購入できないと言うならば、実際には極々近所の郵便局がたとえ廃局になるとしても、少し先の所には郵便局はあるわけで、そこで通帳から現金をおろして買い物をするということですから、金融弱者が生まれるという言い方の背景に、それは単なるいちじくの葉ではないのかという感じが多くの有権者にやはりあったように思います。

 既得権の構図もいろいろ見たのだと思います。特定郵便局の場合は地代・家賃を取っているわけです。今全国の中小都市において小売店営業をされている所で、地代や家賃に相当するものを取れているというのでしょうか、計算上取れていると感じている人はほとんどいないわけであります。逆に言いますと、小売店やガソリンスタンドが廃業した場合、誰か借りてくれないかな、地代・家賃が欲しいな、と言ってもなかなか地代・家賃が取れないというのが現実です。やはり地代・家賃というのはいつでも取れるわけではなくて、あるいはどこでも取れるわけではなくて、特定の所でしか取れないということがもう誰にもわかってしまった社会になっている。そのときに特定郵便局長は数百万の地代・家賃が入るということは、これはなかなか微妙な問題を引き起こす、すでにそういう心理になっているのではないでしょうか。

 そうしますと、郵政民営化反対の人たちは、そうした全特とかあるいは労組の人たちに選挙運動を依存するとか票を依存するとかいうことを通じて、そういう勢力の代弁をしているだけではないか、という感じが出てきたのだろうと思います。選挙が終わってみますと、全特にもあるいは労組の側にも、これは大変なことだ、という感じが出ているようであります。

 しかしこれはただ単に郵政事業だけのことなのかというふうに考えますと、同様のことはいろいろあるということにわれわれは気付くわけであります。今日は農協と医師会のことだけを取り上げてみたいと思います。農民数が減ってきていることは間違いないのですが、そのわりに農協の合理化が進んでいないという事実があります。そして農村において、あるいは農民が財やサービスを購入するときに、農協の窓口で買っているのだけれども、どうも一般の民間、通常の事業者から買うよりも高いものについている。しかしそれは、農協のメンバーであるということで結果として高いものを買っているのではないか、手数料が高すぎるのではないかという問題があります。共同組合組織ですから、独禁法がどういう形で適応されるのかということについてもまだ十分の見極めができていないというのが現状だと思います。抱き合わせ販売ということがあると、これは独禁法上問題があるわけですが、それに類したことはないのか、あるいは、ベンダー(売り手)とそれから購入者(買い手)との関係において、幾つかの不透明な関係がここではあるのかどうかというようなことも議論としては今後出てくると思います。農協が十分合理化されていない、そのことのゆえに結果として農民が高い農業用資材等を購入しているのではないかというテーマは農業の効率化を考える場合には大きな視点になってくると思います。

 農業組織と並んで、伝統的に自民党に票を出していたと言われる組織に医師会があります。開業医の先生方を中心に組織化されているのが医師会ですが、診療におけるシェアとでも言うべきものを弾いてみますと、1/4程度というふうに考えたらよいのではないでしょうか。緊急医療体制とかいうことになりますと当然開業医の役割ではありませんので、そういうこと全体を考えてみるといろいろ問題がありそうだなということになります。その最大の問題点は何かといいますと、診療報酬という、治療サービスの提供とそれに対する価格体系というものが自由化されてはいないということであります。医療の世界を国際比較していろいろ勉強している人に話を聞きますと、日本では先端医療あるいは先端的な検査体制をとる仕組みにおいては、これは例えば機械が高くなるといったことを意味するわけですが、それに十分な対価が支払われないため、他の国よりも先端的な機械検査治療体制が入りにくくなっている。disincentiveのことをいうのですけれども、もし優れた機械を入れたとしてもそれに見合ったサービス価格といいましょうか、治療に要する費用が患者から、保険会計から徴収できないということになりますと、それではそういう機器を入れるのは遅らせようかという気持ちについついなりがちなことは明らかであります。すなわち、わが国における医療サービスの提供の価格ラインというものをサービスの質の低いところから高いところにかけての価格の体系ということから見ますと、カーブが寝てしまっているという形になります。

 日本では高い質のサービスを提供することに対してdisincentiveという仕組みを置いているという面があります。もちろんこのことは相当注意深い研究を通じて明らかにすべきことですので、専門的な研究論文が出ることを私は望んでいますけれども、概して言うならばそういう傾向がやはりある。特に国際比較してみるとこのことが明らかです。日本において横軸に医療サービスの質をとり、縦軸に価格をとったときに、なぜこのカーブが非常に緩い上昇率しかもっていないのかということになりますと、これは診療報酬体系の問題だということになりますし、そこにはやはり医師会の力が働いていると言わざるを得ないのではないかと思います。

 今後高齢化社会を迎えて、どういう医療サービスをどういう価格で提供されることが望ましいのかという問題があります。本当に日本で先端的な医療が受けられないということになりますと、お金持ちから段々海外で医療サービスを受けるということになります。アメリカへ行くのか、という話になるのですが、最近ではそれが必ずしもアメリカということではなくて、アジアの特定の病院ではすでにそういう体制がとられているということがあります。東アジア諸国にも日本よりも一般的に言えば優れた治療機械や検査機械が導入されていることもあるということを現実に考えてみますと、ここにも実は政治を通じて歪みが生じているか、少なくともそういう可能性があるということになります。われわれはここでも既得利権というものに向わざるを得ないのではないかと思っています。

 今回の自民党大勝は、既得利権を個別に取り上げながら、われわれは改革の道を歩まざるを得ないのではないかということを端的に示す例だと思っています。