2004/3/5  明日のアメリカと日本の対応 (RealPlayer再生)

 今週、シリコンバレーに行ってきました。今日はシリコンバレーから見た日本、そしてシリコンバレーに起きていることから一体日本が何を次の段階で考えなければいけないのか、私の考えたことを申し上げようと思います。

 シリコンバレーはいろいろな時期に私にとって感銘深いものでした。例えば 1995 年ですが、シリコンバレーに 1 週間くらい滞在していろいろな取材をしたことがあります。今から考えますと、サーチといいましょうか、索引をウェブ上でつくるという仕事がやっと立ち上がってきたところです。ヤフーとかそういう新しい企業が、新しい発想で、どのようにしてウェブの中でいろいろな交流が起きているのを拾い上げるのか、その手法をいろいろな人が考えていたというのがありました。これは私にとって大変新鮮なものでした。また、今日で言えば CD-ROM の段階に限定されたものだと思いますが、自分が知りたい情報が次々検索を通じて、百科事典に入って、百科事典の中からまた別のところにつないでいく、というかたちで、もし勉強する者、それは高校生であったり大学生であったりするのでしょうが、自分がもし相当深い関心を社会にあるいは歴史に対して持っていれば、それに対してどうやって応えたらいいのか、一つの完結した仕組みの中ではありますが、いろいろなかたちでそれを拾い上げることができる、そういうことの工夫をしている人達がいました。これは今日ではもっと大きく開かれたネットワークの中で次々に広がっていくわけですが、当時はまだ閉じられた空間とはいえ、少なくとも意欲を持ち、社会に対する関心歴史に対する関心を持っている人ならば、相当程度広く次々と発想をのばすことができる、そうした材料を提示することができる、そういう世界が実現していました。

 1999 年の秋にシリコンバレーに行った時にスタンフォード大学にも足を伸ばしたのですが、そこで自然環境破壊に対する抗議集会が開かれていました。近頃では随分珍しい学生さんの動きがあるものだと思っていましたけれども、それからしばらくしてシアトルで WTO の会議が開かれたときに、この自然環境派といいましょうか、グローバルな商業主義に反対する勢力が街頭でデモをして相当の騒乱状態が起きる、ということがありました。これがグローバリズムに対する市民といいましょうか、あるいは第三世界も含めて反発が出た一つのきっかけだというふうに言われています。その 3 ヵ月ほど前でしたか、スタンフォード大学のキャンパスの中で、こうした自然保護に反するような経済活動が自由貿易の名のもとに行われているという抗議集会があったわけです。海の資源も乱獲にさらされているのは、捕ったものがどこにでも売れるからだ。結果として網にかかった海亀は絶滅の危機に瀕している。例えばそういうスピーチでありますが、そういうものがあったわけです。これも当時の状況からすれば、途上国の内部ではこうした抗議集会があったわけですが、アメリカの中で具体的に見たのもこのシリコンバレー、スタンフォード大学において初めてでありました。

 今回一つ感じましたのは、ブッシュ政権のもとにおいてイラクに対してテロの根源に対する攻撃というかたちの、アメリカ一国がかなり突出するかたちで始まった戦争に対する批判が非常に強いことです。スタンフォード大学あるいはシリコンバレーを見てみますと、確かにインドとか中国とか従来のアメリカの骨格を必ずしも形成してきた人ではない人々によって活動の多くが担われていることが明らかです。カリフォルニアのこの地域においては、技術者に占めるインド人の比率が 3 割を越えるとか 4 割だとかいう数値もあるくらいですから、アメリカの中の典型的なものとは言えません。ブッシュ大統領の 4 年前の選挙では、中西部から南部にかけては圧倒的に共和党といいましょうかブッシュ票だったわけですが、西海岸とそれから東海岸は概ねゴア候補に対する票だったわけです。アメリカの中に大きな亀裂がある、という表現はもともとあるわけですが、シリコンバレーのように世界の各地からいろいろな人が貢献したい、あるいは自分の力量を発揮したい、というかたちで集まってきた所においては、価値の多様性というものが前提にあるわけです。ブッシュのテロに対する非常に戦闘的な姿勢というのは、一方で国際秩序を何がなんでもつくりあげるのだという意欲の現れではありますが、一方多様なアメリカにこそ自らの位置を見出すことが出来ると考えている人々にとってみますと、これはけっこう生きにくい時代に入ってきたのではないか、という考え方があるわけです。

 スタンフォード大学ではたまたまウィリアム・ペリーとか、スタンフォード大学の研究を今担っているかつてのクリントン政権における主要な役割を果たしてきた人達の話を聞くことが出来ました。ウィリアム・ペリーはケリー候補の支援していますが、今まで彼はそういうかたちで特定の大統領候補を支援したことはなかったにもかかわらず、民主党のケリーを支援すると明確に人前で語っていました。そういう意味では、今のブッシュ政権の国際把握とか、あるいはアメリカ社会のあるべき姿ということからいきますと、もう少し違った接近方法をとる人々がかなりあった、というのは大変興味深いことです。

 そして、これはまだ指標として明確に確認されたというわけではなさそうですが、ある種の兆しとして言われていることは、例えば、インド人のエンジニアとかソフトウェアにかかわる仕事をしている人達が、アメリカからインドに帰っているというケースにかなり遭遇するというわけです。これはもちろんインドにおけるソフトウェアビジネスとか、アーキテクチャーの構築とかいうことが進んでいることと関連があります。最初はクレジットカードのデータを加工するとか保存するとか、あるいは金融取引についてのドキュメントをつくるとかいうことでアメリカからインドに仕事が流れていたわけですが、最近では裁判手続きにかかわるような、かなり高度の仕事もアメリカからインドに流れているというふうに言われています。ありとあらゆる書類作成にかかわる業務が、アウトソーシングというかたちをとってアメリカからインドに流れているというわけです。インドの英語を話す人口はアメリカより多い、アメリカは 2 億数千万人、インドはそれより多いとインド人は言っているわけですが、それだけの英語を話すことができる、そして現実にいろいろな数学を含めてかなり高度なことをできる人達がいるのも明らかです。アメリカでのエンジニア、大学を出て一定の資格を備えていると思われているエンジニアが 1 年に生れる数とインドで生れる数はもう既に並んできているというデータもあるくらいですから、インドにおける高等教育の充実は相当なものになってきているわけです。そういう意味では、仕事はどんどんインドに流れているわけですから、そこに新しい革新をもたらすような人々がアメリカの中で仕事をするよりはインドでした方が良い、というケースも出てくるわけです。

 スタンフォード大学の先生の中にはこういうことを言っていた人もいます。インドは驚くべきほどに発展し始めた、インドの高等教育を受けるために受験する人達が、いうならばすべり止めで、例えばハーバードを受けている、インドの高等技術学院という高等研究機関と例えばハーバードを天秤にかけて、結果として彼らは両方入学許可をもらうと、インドにとどまるケースがあるというわけです。もちろんこれは生計費の問題もありますし、学費をいくら用意しなければいけないということもありますから、両天秤にかけた場合に、教育の質、研究の質がすなわちインドの方が高いのだとは言えないでしょう。生計費が高く教育のためにも余分な金がかかる、えらく金がかかるということはもう事実ですから、ひとりの学生が奨学金を別にしますと日本円にして 400 万円くらいかかり、奨学金の獲得も簡単ではないということは明らかです。そんなに多額のお金をかけてアメリカの高等研究機関・大学に行くよりは、インドにとどまっても十分自分の関心をひろげることができる、研究を積み重ねることができる。そういう考え方があるのは事実です。少なくともそういう議論が始まっているということは、今回シリコンバレーやスタンフォード大学で議論してきてみて、やはり新しいなというふうに思いました。アメリカがひょっとしたら変質し始めているかもしれないと、そういう感度を持っている外国から来ている研究者がいるということにも、われわれは注目すべきかと思いました。

 これは極めて重要な結果をもたらす可能性があります。アメリカにおいて、企業を起こすという意味での起業家が多いことは日本との対比で明らかですが、そのかなり多くが外国からアメリカにやってきた人達です。インドから、あるいは中国からというのが一つの典型的な姿ですが、一旦アメリカの大学に来て、そして例えばアメリカを代表するような IT の会社にしばらく勤務の後、一人立ちする、小さくても自分の企業を持つ、というケースが業を起こすという意味での起業家の発生ですが、そういう意欲を持つ人達がかなりの程度海外から来ているということが重要なわけです。そしてここで問題なのは、アメリカが、戦争つまりテロリストに対する戦闘行為を実質上の戦争というふうに言うわけですが、この戦争状況のもとにおいて価値観といいましょうか、非常に狭いものになり始めている。アメリカ社会における共通の基盤が狭まっているのではないか。その狭くなったアメリカの中では少し息苦しいと感ずる人が出始めている。これはまだデータに出てきているわけではないのですが、兆しがあるというわけです。

 しかし、この兆しがある種の傾向性をもったということになりますと、アメリカにおける業を起こすという意味での起業家の出現比率はひょっとして、例えば 3 年後とか 5 年後とかをとってみると、落ちているかもしれないというテーマがここにはあるわけです。現在経常収支のうち財・サービスというところだけをとってみると、アメリカの赤字は GDP 比で 5% を越えるほどの大きさになっており、今までのアメリカの歴史の中で最も大きいものになっている。これを埋め合わせているのは、アメリカにおいてつくり上げられた新しい企業が海外の投資家の買収対象になっているからである。従って資本収支ではアメリカは黒字になり、経常収支の大幅な赤字の持続性というものを保証しているわけです。もし 3 年後、 5 年後にアメリカにおける業を起こすという意味での起業比率が低下したということになりますと、長期資本収支の今日のアメリカの黒字は持続しない。あるいは持続しないかもしれないという可能性があるわけです。そうなりますとこれは、アメリカの経常収支の赤字をうまく資金繰りする上で、長期資本収支は必ずしも頼りにはならないということになってくるわけです。そうしますと、これは経常収支のベースで多少とも帳尻合わせの方向にもっていかなければならないということになり、ドルのかなり大幅な下落を想定するということになるわけです。

 もし多様なアメリカで、非常に層の薄いと言いますか、単層化するような指向が広がってしまったとすると、アメリカにおける起業比率も低下し、アメリカの現在のシステムの持続性そのものも脅かされるかもしれない。これは今の段階では疑問符がつくかもしれないという程度の話であって、それ以上のデータがまだあるわけではないのですが、今回いろいろな人と議論して感じたことは、現在のブッシュ政権がとっている国際社会への対応がずっと続くわけではないかもしれないということです。アメリカ自身の手によってある種の変容といいましょうか、変更が加えられる可能性は出てきたかもしれない。今回の秋の大統領選挙では多分そこまで議論はいかないと思いますけれども、大統領選挙で共和党民主党どちらが勝ったにしても、明日のアメリカということを考えますと、こうした多様性をいかにして維持するのかというテーマがもう一度本格的に論じられる可能性があるということです。

 このような射程で考えてみますと、日本はアメリカの何と、どういう部分とどういうかたちで組むのか、あるいはもし議論を根底から起こすとすればどういうところにおいて議論を起こすか。健全なアメリカといいましょうか、アメリカ社会、そしてアメリカ経済の持続性というものとの間で、われわれはどういうかたちのお付き合いが出来るのか、議論の仕方が日本側においても相当変化せざるをえないかもしれません。これは 1 〜 2 年の単位ではなくて、例えば 5 年とか 10 年の単位の話なのですが、私は日本のアメリカ感、あるいはアメリカとの間でどういう議題を選んで、どのように議論を構成し、どのようなかたちで相互理解の枠組みをつくるのかということからいくと、このテーマもかなり重要なものになるのではないか、こんなことを感じて帰ってまいりました。

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