構造改革の評価の視点
今日は経済政策と政治指導者との関係について少し議論を整頓してみたいと思います。自民党の総裁選が近付きました。そして、その後には総選挙が行われるであろうというのが一般の見方です。従いまして、小泉政権で行われてきた経済政策について、この総括とでもいうべきことが、総裁選そして総選挙において行われるわけです。いわばまず自民党の中の候補者の政策比較という問題、そして選挙における政党間の経済政策についての議論の枠組みというふうに考えてみますと、いくつか象徴的な論点が浮かび上がるのではないかというふうに思われます。
まず第一に、小泉内閣における構造改革は一体何であったのかということが問われると思います。これはいわば入り口のところの議論でしょう。私はこの論点について言うならば、構造改革は依然として仕掛かり中なのだから、もっとはっきりした論点をとったほうがいいというふうに思います。すなわち、小泉内閣によって行われたことと、行われなかったこと、この2つをとり上げて、これが今日の時代そして21世紀の日本を考える上で的確だったかどうかというポイントだろうと思います。やったことということになれば、いくつか手がけられたことがあるわけですが、しかしこれがまだ最終的な成果に繋がっていない。手がかりを作り出すのに大変な政治エネルギーを投入した。そういう問題も多いわけです。しかしもっとはっきりしていることは、小泉内閣においてやらなかったことだと言っていいと思います。
1992年から小泉さんが就任する直前の2001年4月に至るまで、景気が悪ければ政府は歳出を増やすというやり方をしてきました。この間、財投機関は膨張し、結果として国民の将来の税負担は大幅に膨れ上がったわけです。国債と地方債の双方を合わせました公共的債務とでも言うべきものとGDPとを比較してみますと、この間に60%から125%まで拡大していたということになります。小泉内閣の下においても、30兆円という国債の発行額は結果として守ることが難しかったわけで、来年度の予算においては、おそらく国債の発行額は40兆を上回るのではないかと言われております。もちろん、歳出のみならず税収の見通しもつくりませんと、来年度の国債発行額に見当を付けることは難しいわけですが、いろいろな前提を置いてやってみますと、残念ながら来年度の2004年度の国債発行額は40兆を上回る可能性もかなりあるというふうに言わねばなりません。そういう意味において、国債発行額についての見極めからいきますと、30兆から40兆への道を歩んでいるということになるわけです。
しかし一方やらなかったことということからいきますと、景気がこの間、景気循環上は下方局面にあったにもかかわらず、歳出の拡大はやらなかったということがあります。そして公共事業は削り込みました。幾つかの補助金、とりわけ財投機関に対する出資金、補助金、これは明確な削減を行っています。そういう意味では、1992年から2001年までの流れとは180度違うことを行っていたということが言えると思います。
このことの評価ですが、現在自民党の総裁選において、小泉首相以外の候補者の過半はどうやらこうした抑制的な歳出が問題なんだという、こういう論点になっているわけです。しかし、私はそうではないだろうと思います。世界で見ましても、景気が悪いから景気拡大政策を政府がやるべきだ、それが政府の役割だというふうに考えている有権者は一般的に多いとは言えません。統一欧州、EUにおいては財政支出について非常に厳しい枠があるのはご存じのとおりであります。共通通貨ユーロを持つために、1年間の公共債の発行額とGDP比率の間に、極めて厳しい線を設け、これをできるだけ各国で守るように強いてきているわけです。いわば懲罰規定をおいて、景気が悪いからといって財政赤字を増やせばいいというものではないという枠組みになってきています。これはいわゆるケインジアン政策と全く違うことをやろうとしているわけです。日本においても、景気が悪いから歳出を増やせばいいという類の問題ではないというのが小泉首相のこの間の一貫した姿勢でした。そういう意味では、今回の自民党総裁選においては、小泉内閣においてやらなかったことを一体どう評価するのか、このあたりが一つのポイントだろうと思います。
今後の経済政策の評価の視点
それでは今後展開される総裁選そして総選挙において、有権者として国民として、どういう経済政策の評価の視点があればいいのかという問題になります。私は三つの点について問題を提起すべきだ、視点を明確にすべきだというふうに、評価者の側における立場から申し上げたいと思っています。
一つは政策の持続性です。例えば、現在の局面でも大型の補正を組むべきだという意見が一部にあります。それではこうした政策の持続性ということになればどうなるでしょうか。経済は相互に関係していますから、今までに想定されているよりも大量の国債が発行されるということになりますと、当然のことながら新規に発行される国債の価格に影響が及びます。問題の立て方からいきますと、まず既に発行されている国債の値下がりが流通市場で起きます。結果として新発債のクーポン・レート、そのとき新規の国債を発行するにあたって、政府が覚悟せねばならない支払利息というものが拡大する可能性が非常に大きいわけです。これは経済の経路に大きな影響を持ちます。そうすると、もっと需要を付けるべきだ、失業者が5%台ということになれば、もっと拡張的な予算を組むべきだという主張に対して、果たしてそうした政策は持続性があるのだろうかという問題があります。特定の項目、例えば歳出増というところに焦点を合わせた政策は、他に影響を与えるわけですから、この場合は国債の流通価格を通じてですが、脇から日本経済全体が狙撃されてしまう。思わざる、あるいはある程度想定がつくことなんですが、主張されている方によれば思ってはいなかった面から日本経済が全体として狙撃される可能性がある。とすれば、そうした政策の持続性はあまりにも乏しいではないか、こうした論争が当然あるわけです。おそらく論争ということになりますと、この一つの政策が持つ持続性、果たしてそれは続けられるものなのかどうかという論点が出てくるように思います。
二番目には、経済政策の相互間の整合性というものが問われるのではないかと思います。一つの内閣、あるいは政党が主張していることが、右手でやっていることと、左手でやっていることが食い違っているということになりますと、政策の切れ味と言うものは全く期待できない、むしろ大変撹乱的な影響を経済に与えるという可能性が出てくるわけです。
郵政事業の民営化というテーマにおいても、政策相互間の整合性という点からのチェックは極めて重要だと思います。もし財政再建というテーマに対して十分な努力がなされずに、現在の郵貯・簡保の民営化ということになりますと、需給論とでも言うべきものが出てくることは避けられません。株式価格においてもよく需給論というのは出てまいりまして、どこの窓口で売りが出るとか買いが出るとかという、一見もっともらしい議論が出てくるわけですが、そうした議論が出てくるのは、やはりどこかで経済の整合性が崩れている場合であります。郵貯・簡保において大量の国債保有がなされているわけですが、これが民営化されるということになりますと、その民営化された経営主体が国債を保有し続けるかどうかについて、判断根拠と経営姿勢を全てを決めるということになりますから、現在だったらとにかく郵貯・簡保のお金は大量に国債に買いに向かってくるけれども、民営化された後には一体買ってくれるのか買ってくれないのかわからないではないか、こういう議論が出ます。もともと国債の償還が確実であれば投資家は必ず出てくるわけですから、問題は償還についてリスクがない、リスクが極めて軽減されていっているという事実さえあれば、そうした踏み込みさえあれば全く問題ないわけですが、もしここが甘いということになりますと、いろいろな、いうならば雑音まで含めて国債についての需給論というものが出てまいります。したがいまして、郵政事業の民営化を何としてでも実現したいということになりますと、当然のことながら環境整備の問題として財政再建に明瞭な道筋をつけるということが必要になります。小泉首相は財政再建に道筋をつけるために、同時に踏み出すということになりませんと、郵政事業の民営化に迫力が欠けるということになるわけです。
郵政民営化について言えば、もう一つ整合性の問題があります。それは民間金融機関の規律の問題です。各民間金融機関に規律の確立を求めるということがなければ、民営化を通じて、これまで郵貯・簡保は国営そして公社の手おいて行われていますので、これを民営化するのにあたって、今までの民間金融機関に規律がなくなったままである、規律の確立にまだ時間を要するということになりますと、これはどうも右手で行うことと左手で行うことの間に距離があるではないか、あるいは逆、ときには逆になっているのではないか。一方で民営化、郵政の民営化を言いながら、他方で民間金融機関の経営者のモラル・ハザードを引き起こすような公的資金の注入、いわば国有化に近い事態が起きるということになりますと、全体として何をしているのかわからないではないか、そういう批判が出てくる可能性があります。したがいまして、経済政策の相互間の整合性という視点からいきますと、郵政の民営化を主張する場合には、一方で民間金融機関に秩序の確立を迫る、モラル・ハザードは許さないということが極めて重要なテーマになるわけです。ここと整合性がとれませんと、郵政民営化の説得力は一挙に危うくなるという、そういう問題があるように思われます。
持続性、整合性と並んで、三番目に包括性とか、総合性というテーマがあるのではないでしょうか。例えばこれは、国際的に見て、日本の農業をどう位置づけるのか、ここの包括性、総合性がないと、農業政策というものを国内の秩序論だけで議論するのには私は無理があるのではないかと思っております。WTOやFTAへの試みからいきますと、日本の極めて保護された農業というものをこのまま放置したままでは、日本が国際社会に整合的に、包括的にどのような姿として立っているのか、これを示すことは極めて難しいわけです。もし日本がこの農業の問題について、これまでどおりの保護水準を維持したいということになりますと、日本の国際社会に向けての包括的な提案は極めて弱いものになります。その場合には、日本に向けての投資が出ないのみならず、日本の企業が日本を捨てて、他に、日本列島以外に機会を求める。投資の機会、そして売上増、収益機会を求めるということに極めて近い状態になる恐れがあります。そういう意味では、国内で掲げられる政策が国際社会との関係において、そして日本の将来を考えた上において、どれだけ総合性、包括性を持っているのかという視点からチェックが行われるべきだというふうに思います。
以上のように考えてみますと、政策というのは一つひとつ、いわば勝手にといいましょうか、秩序もなしにA、B、C、Dを並べて、これをやります、あれをやります、また、これだってわれわれは主張しますと、無秩序に並べるような性格のものではないということになります。国民はこうした政策体系の評価者であります。持続性、整合性、また包括性、こうした視点から経済政策として取り上げられているものの間に、一体どのような関係が成立しているのか、一人ひとりの国民が評価点を加えるべき時期になっているのではないかと思います。自民党の総裁選、そして総選挙のテーマは、正にこうしたわれわれのものを見る視点というものを問うているのではないでしょうか。
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