今日は介護の問題を取り上げてみたいと思います。21世紀政策研究所では、介護をe-デモクラシーを通じていろいろな意見を求めたり、われわれの考え方を発信したりしています。何人かの人から、なぜ中長期的な経済のシステムを取り上げている21世紀政策研究所が、介護という非常にサービス・オリエンティッドといいましょうか、非常に個別の仕組を取り上げるのかという疑問を出されています。今日はこれに対して正面から私なりの考え方をお答えしようと思います。
もともと高齢化社会に入ったわけですから、医療・年金・介護という問題をまとめて議論すべきだという議論があります。私は確かに、これは高齢化社会に伴う問題ですから、年金も医療も介護もあわせて論ずべきだという点については全く同じ意見なんですが、ただどういう原則を用意すべきかとなると話は随分違うと思っています。
まず年金の問題ですが、基礎年金を除きますと、私はこれは市場に任すべき問題だというふうに思っています。基礎年金は、これは高齢者に対して最低限のものを用意しようということですから、これは勤労世代が主に負担するというかたちで、社会保険の形を組むことは十分考えられます。そういう意味では、主に勤労世代が高齢者のために自分達の一定割合を割くという意味で基礎年金は設計していいと思います。しかし、二階建て、三階建て、それから最近のように、確定拠出型の年金というかたちで日本版401kというようなものを工夫するということになりますと、これは自分の裁量で老後に備えるという意味で完全積み立てというかたちが望ましいのではないかと思います。日本版401kの設計にあたっても、これは退職年金も含めまして包括的に自己の裁量がきくというかたちで二階建て、三階建ての分も含めてもう一度設計しなおす、ということにするのが望ましいと思います。いずれにしろ、完全積み立て型、確定拠出型ということになりますと、これは市場のなかで運営してもらう、そして個々人の思いが具体的な資金運用というかたちで表れるようなものの設計がいいと思います。
しかし、介護という問題になりますと、これはある種のわれわれが共通に持っています先行きに対するリスク、危険というものを、みんなで負担しようという性格のものだと思います。介護のサービスを受けることを望んでいる人は、実際には誰もいません。しかし、誰しもそうした介護サービスを受けざるを得ないという意味でのリスクは負っているわけです。そうしたリスクをみんなでプールして、それに備えようというのは合理的な考え方なわけです。
このテーマを考えて見ますと、現在の介護保険の設計で考えてみますと、非常に重度の介護サービスを受けざるを得ない立場の人に対して、今われわれはその上限について議論しているわけですが、外国の訪問者などに、日本では年間およそ4万ドルに相当する費用を支払って、重い介護サービスを受けなければいけない人に対して備えているといいますと、ほとんどの外国人がひっくり返るほど驚いています。例えばアメリカで30歳代前半の大学の助教授の年収を考えますと、州立大学で4万ドルから5万ドルくらいです。少し人口が少ない州の助教授は年収4万ドルから5万ドルですから、介護のサービスを受ける人に対して日本では4万ドルを用意しているというと、それはもうひっくり返るのは当然なわけです。それで彼らは、そんなシステムは持続するのかと言っています。私も長い目で見て高齢化社会が進行する、高齢者の比率が高くなりますと、もちろん重度の方に対してですが、4万ドルを用意するという仕組はやはり無理があるというふうに思っています。
とりあえずそういう制度設計ではじまりましたが、持続性ということを考えてみますと、おそらく今後は現地現場における同世代の人、あるいは同じ時代を生きている若い人も含めてですが、お互いサービスを提供しあうというかたちで支えるものを入れないと持続性に疑問符がつくのではないでしょうか。そういう意味では、高齢者になっても介護サービスを受けなくてもいい、非常に運のいい方にとってみれば、運の悪い人に対して、自分のできる範囲内で自分の時間を使うということは当たり前のことなわけです。そういう意味では介護サービスをすべて市場でもって調達する、そのためには対価をすべて支払うという設計が果たして可能なのかという問題になるわけです。もともと誰にでも襲ってくるかもしれない不幸に対して、そのリスクというものをみんなで分け持とうということですから、自分の時間を割いて、幸運な方は不運な人に対して自分の時間を割くという考え方を一度入れませんと、このシステムの持続性はないのではないかというふうに思っています。
21世紀政策研究所では、ほとんどのことは市場における取引を通じて、効率的に問題を組んだほうがいいというふうに考えておりまして、年金の問題もそのように考えています。しかし、非市場、市場には任せられない部分は社会の中にはあるし、また社会は市場に任す部分と、市場に任すべきではない部分の間に截然とした区分をつけるということは重要ではないかと思っています。私はこれを聖書の一言から借りて、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神のものに」というふうに考えています。市場の問題は市場に送り込む、信仰の世界を確立するためには、現世における徴税権力、これはもう認めようという考え方が「カエサルのものはカエサルに」だったわけです。そして、そのことによって神のもの、信仰の世界の自律性を得たというのが、キリスト教の初期段階における歴史なわけです。私は、これは市場のものは市場に、非市場は非市場の中において規律を持つという社会の設計が重要ではないかというふうに思っています。
そういう意味において、われわれが介護を取り上げるということは、一方において市場の論理をもっと突き詰めろ、という意見でありますし、すべてを市場に任すわけにはいかないわけですから、その分野においては非市場における規律付けが社会に必要だというふうに思っているわけです。そういう意味において、e-デモクラシーのサイトにおいて、介護の問題についていろいろな方の意見をうかがいながら、そしてわれわれも意見を発信しているのは、この非市場における規律付けの問題、この部分をどうやって介護制度の中に組み込めるかということを模索している動きだと理解していただければと思います。
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